2013-01-29 | |
テーマ:ゆかりの地巡り |
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足利義満ゆかりの地巡り
こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは・・
足利義満(あしかがよしみつ)ゆかりの地巡りです
室町幕府3代将軍である足利義満は
世界遺産『金閣寺(鹿苑寺)』を建てた人物であり
勘合貿易(かんごうぼうえき)を行った事で知られています
そして、彼は
『太政大臣(公家のトップ)』
『征夷大将軍(武家のトップ)』
という2つの位を授かっている事や
明からも「日本国王」の称号をもらったりと・・
民間人で、天皇に1番近づいた人物とも言われているですね
※その後、出家すると『准三后(じゅんさんごう)』になりました。これは、太皇太后、皇太后、皇后の三后(三宮)に准ずるという意味を持つ称号の事です。
この他にも
南朝と北朝に分かれていた朝廷を1つにまとめ上げたり
室町幕府という名前が
彼の邸宅(室町殿・花の御所)が由来となっていたりと
・・・とにかく、彼が残した残した事は
非常に大きいんですよね
そんな足利義満ゆかりの地をご紹介します
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)
京都府京都市東山区今熊野椥ノ森町42
義満が17歳の時、この新熊野神社で
猿楽(さるがく・現在の能)が行われました。
その際に出演していた
世阿弥(ぜあみ・当時12歳)や、父親である観阿弥(かんあみ)の
演技に一目ぼれをし
以後、彼らは室町幕府のお抱えとなったそうですよ。
この事から芸能上達のご利益のある神社としても有名です
鹿王院(ろくおういん)
京都府京都市右京区嵯峨北堀町24
こちらの鹿王院は
義満が24歳の頃、延命祈願の為に建立された
宝幢禅寺(ほうどうぜんじ)を起源とするお寺です。
開山は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)というお坊さんで
義満が師と仰いだ僧です
ちなみに山門には
義満の墨蹟(ぼくせき・筆跡)と言われる
『覚雄山』と書かれた額が残されています。
※覚雄(かくゆう・かくおう)とは、お釈迦様の事を指します。
この他にも、本堂には
足利義満の木像が安置されているんですよ
相国寺(しょうこくじ)
京都府京都市上京区相国寺門前町701
邸宅であった室町殿の東隣に建立した寺院です
この相国寺の山外塔頭にあたります。
そして、義満は相国寺の創建とともに
『京都五山(きょうとござん)』を制定し
その第2位に相国寺を位置付けました。
※京都五山は京都にある臨済宗のお寺をランク付けしたもので、足利家(幕府)と密接な関係にある寺院を格付けしたんですね。詳しくは京都五山の記事をご覧下さい。
金閣寺(きんかくじ)
京都府京都市北区金閣寺町1
金色に輝く舎利殿が大変有名な世界遺産・金閣寺は
正式名称を鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。
荒廃していた西園寺と山荘の北山第を譲り受けた義満は
新たに改築し、邸宅『北山殿』を造営しました。
ちなみに、将軍職を息子の義持に譲ってからも
実権は手放さずに、ここで自らが政務にあたっていたと
言われています。
等持院(とうじいん)
京都府京都市北区等持院北町63
足利家歴代将軍の菩提寺として知られるお寺で
境内の霊光殿には
歴代の室町幕府将軍の木像が安置されています
※足利義量(あしかがよしかず)と足利義栄(あしかがよしひで)は除く。
そして、この等持院は
義満の火葬が行われた事でも知られています
1408年に死去した義満は、ここで火葬され
遺骨は鹿苑院(ろくおんいん)に納められたと言われています。
※鹿苑院には義満のお墓があったと推測されますが、明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、荒廃してしまい、同時に墓も失われたと言われています。廃仏毀釈について詳しくは泉涌寺 その1の記事をご覧下さい。
ちなみに、没後は朝廷より
『太上天皇(皇位を後継者に譲った天皇に贈られる尊号)』の尊号を贈られるも
息子の義持が拒否したと言われているんですね~
※彼ら親子は、非常に仲が悪かったそうですよ。
そんな足利義満ゆかりの地はコチラ↓
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