メモ2013-05-23
テーマ:ゆかりの地巡り
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桂小五郎ゆかりの地巡り

今回ご紹介するのは桂小五郎(かつらこごろう)ゆかりの地巡りです。

彼は長州藩出身で、維新の三傑にも数えられる人物です。


後に木戸孝允(きどたかよし)と名を改め

版籍奉還(はんせきほうかん)や廃藩置県(はいはんちけん)を行い

徳川幕府の作った封建制度を解体し

西郷隆盛、大久保 利通(おおくぼ としみち)らと供に

中央集権国家を作り上げたんですね。

※維新の三傑とは彼ら3人の事を指します


という事で、今回は

幕末から明治期にかけて活躍した

桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの地巡りをご紹介したいと思います!

桂小五郎は1833年、山口県萩市にて生まれます。

10代の頃より剣術を学び、長州や江戸にて修行を行ない

剣豪と呼ばれるまでに、剣の腕を磨いたと言われています

ルックスも良いですし、剣術もスゴい桂小五郎は

かなりモテモテだったのではないでしょうか?


そんな彼が、師と仰いでいたのが

吉田松陰(よしだしょういん)です

黒船来航により開国を迫られていた幕府を見て

吉田松陰は「このままの日本ではいけない!」と日頃から訴えていました。

※幕府が天皇に許可なく日米修好通商条約を結んだ事などを吉田松陰は非難していました。


こうした中で

井伊直弼による『安政の大獄(あんせいのたいごく)』によって

吉田松陰が処刑され

この悲劇に、弟子であった桂小五郎は

怒りや悔しさから「徳川幕府をいつか見返してやるぞ!!」

思うようになったのです。

※『安政の大獄』に関しては圓光寺の記事をご覧下さい。


ちなみに、この頃

長州藩には「日本が外国人に乗っ取られるかもしれない!」という危機感から

外国船に対して砲撃などを行なっていました。

そうです・・いわゆる

攘夷(じょうい・『夷敵=外国人』を打ち破る)です。


・桂小五郎像(長州藩邸跡)

桂小五郎像

京都府京都市中京区河原町通二条南入一之船入町537-4


かつて長州藩邸のあった場所には

現在、ホテルオークラが建っています。

その一角(北西の角)には桂小五郎像が建っているんですよ。

剣豪と呼ばれた彼の勇ましい姿を見る事が出来ます。

※この他にも長州藩邸跡の石碑も建っています。


・翠紅館跡

京都府京都市東山区高台寺桝屋町359


1863年1月と6月に『翠紅館(すいこうかん)』にて

会議が開かれ、各藩士達が

攘夷や倒幕についての具体策を検討しました。

桂小五郎は久留米藩・真木保臣(まきやすおみ)らと供に

6月に行なわれた会議に参加しました。


しかし、その後

長州藩や桂小五郎を取り巻く環境は悪化します

京都にて、長州藩は公家達を巻き込み攘夷を画策しますが

「御所から長州藩を追い出せ」という天皇の命により

『八月十八日の政変』が行なわれ

薩摩・会津藩によって公家達は追放。

長州藩も御所の警備を外されてしまいます。


この他にも『池田屋事件』『禁門の変』などによって

多くの同士を失いました


池田屋事件とは・・・

長州藩を中心とする尊王攘夷派が佐幕派大名らを殺害して

天皇を拉致し長州に連れて行くクーデターを新撰組が未然に防いだ事件です。

※詳しくは新撰組ゆかりの地巡りをご覧下さい。


禁門の変(蛤御門の変)とは・・・

池田屋事件によって有能な同士を殺害された長州藩が挙兵し

京都御所周辺にて起った戦いです。

これにより約400人もの同士が殺されました。

中には自害した人間も多数いたそうですよ。

※禁門の変について詳しくは木屋町界隈の史跡 その2の記事をご覧下さい。


こうした一連の事から

長州藩は薩摩藩らを強く憎むようになったんですね。

そしてこの頃、桂小五郎は、京都の芸子である

幾松(いくまつ・後の木戸松子)と出会っています


・幾松

幾松

京都府京都市中京区木屋町通御池上ル上樵木町497


長州藩士は新撰組などから追われる立場となり

幾松は、身を隠していた桂小五郎を助け

潜伏中の彼に、密かに食料を運んだり

この旅館にかくまったと言われています。

新撰組が、ここに訪ねて来た際も

機転を利かし、素早く桂小五郎を逃しています。


そして詰め寄る近藤勇に対して

「こんだけ荒らし回って、桂はんがいてへんかったら、どない責任とってくれますの!?」

と一喝し、帰らせたと言われています。


桂小五郎・幾松寓居跡

桂小五郎・幾松寓居跡の石碑も建っていましたよ。

惚れた男の為に、命を懸ける幾松のエピソードは有名ですよね


※詳しくは木屋町界隈の史跡 その1の記事をご覧下さい。

その後、坂本龍馬に

「幕府を倒すには、薩摩・長州、2つの藩が力を合わせなきゃいけないぜよ!!」

と説かれ、敵対していた薩摩との同盟

『薩長同盟』を結ぶ事となりました。

この時、桂小五郎が長州藩のトップとして締結したんですね

※『薩長同盟』に関しても木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。


それ以後、一気に政局が変わり

大政奉還(たいせいほうかん)が行われ

王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)が出され

明治新政府がスタートします!

この時、幾松さんとも結婚しました。

※『大政奉還』に関しては二条城の記事をご覧下さい。


こうして桂小五郎は

西郷隆盛、大久保 利通らと供に

ひとつの国となるべく

中央集権国家を作る政策を行なっていきます。


版籍奉還とは・・・

それまでお殿様の持ち物であった

土地(版)や民(籍)を国に返させた(奉還)のです。

諸藩が戸惑わないよう、明治維新の中心であった

薩摩藩、長州藩、土佐藩などが

先陣を切って版籍奉還を行ったんですね。


廃藩置県とは・・・

版籍奉還から2年後、次は藩を廃止し

府や県に統合

中央から派遣された人材を責任者に置いたんですね。

つまりトップが、お殿様から県知事に変わったというワケです


そして、ここがポイントっ!

明治政府が目論んでいた事は、これらを行なった先にあるものでした。

それはつまり・・・

年貢(税金)と軍隊を全て中央に集める!という事です。

版籍奉還の頃までは

殿様が年貢を徴集し、軍隊を保持していました。


しかし、廃藩置県によって

それらを取り上げたんですね

これが明治維新のキモの部分なんですよっ。


こうした改革を武力衝突なく、成功させた事に

大きな意味があるのではないでしょうか?


木戸孝允旧邸

木戸孝允旧邸

京都府中京区土手町夷川上ル末丸町284番地


1877年に明治天皇の行幸に伴い

京都にやって来た木戸孝允は、病に倒れます。

そして、この邸宅にて

松子(幾松)に看取られながら亡くなったと言われています。

享年45歳でした。

終生は、西南戦争をしていた西郷隆盛を心配し

「西郷、いいかげんにしないか」と旧友を心配し続けていたと

言われています。


霊山護国神社

霊山護国神社

京都府京都市東山区清閑寺霊山町1


死後は、木戸孝允の遺言通り

幕末の維新志士達が眠る

霊山護国神社に葬られる事となりました。


そんな桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの地巡りの場所はコチラ↓


より大きな地図で 桂小五郎ゆかりの地巡り を表示



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