2013-01-25 | |
テーマ:ゆかりの地巡り |
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新選組ゆかりの地巡り
こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは・・・
新選組ゆかりの地巡りです
※新選組の字は新撰組と書かれているものもあり、文書でも、どちらも使用例があります。当サイトでは以下、新選組で統一しますね。
まず、新選組が誕生した経緯を
簡単にご説明しますと
1863年に清河八郎(きよかわはちろう)が中心となり
上洛する将軍の警護を目的に
全国から腕に自信のある浪士達を集め、京都に上洛しました。
これが200名以上からなる『浪士組(ろうしぐみ)』です
※清河八郎は、身分などに関係なく、広く募集を行いました。
この中に
新選組の局長『近藤勇(こんどういさみ)』や
副長の『土方歳三(ひじかたとしぞう)』『沖田総司(おきたそうじ)』らがいたんですね。
将軍の警護の為に結成された浪士組でしたが
実際は、清河八郎の考えている尊皇攘夷のさきがけに利用しようとしていました。
目的が違う事に反対した
近藤勇や芹沢鴨(せりざわかも・新選組の筆頭局長)らは
これに従わず
当時、京都守護職であった
会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)に願い出て
新選組を結成する事となります
こうして新選組は
以後、京都の治安維持にあたりました。
※同様に治安維持を行っていた組織として『京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)』があります。
では早速、新選組ゆかりの地を紹介していきます!!
・壬生寺(みぶでら)
京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31
浪士組は壬生を宿舎として滞在していました。
ここで彼らは剣術の腕を磨いたんですね。
当時は、近所の人達からは恐れられ
壬生に来た浪士達を揶揄して、壬生狼(みぶろう)と呼んだり
身なりが貧しかった事から『みぼろ』と言っていたそうです。
壬生寺の絵馬です。
こちらは近藤勇の銅像です。
この他にも『芹沢鴨』と新選組で芹沢派であった『平山五郎』のお墓もあります。
ちなみに、沖田総司は小説などで
好青年でどこか子供っぽいイメージとして描かれていますが
これは当時、壬生の子供達とよく一緒になって遊んでいたという
話が伝わっているからではないでしょうか?
※壬生寺について詳しくは壬生寺 その1、壬生寺 その2の記事をご覧下さい。
・八木邸(やぎてい)
京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町24
新選組の屯所(とんしょ・駐在所や宿の役割)となりました
ちなみに、ここで近藤勇ら5人(諸説あり)は
筆頭局長であった芹沢鴨らの寝込みを襲い
暗殺したといわれています
芹沢は
乱闘騒ぎを起こしたり、商家(しょうか)から強引に金を借りていたり
町の人達に乱暴狼藉をはたらいていました。
当初、新選組は芹沢派と近藤派によって
形成されたグループであり
芹沢を排斥する事によって、近藤派が新選組を掌握出来ると
土方歳三は考え、大義名分を得た事により
彼を暗殺したんですね。
内部の部屋には、芹沢のつまづいた机や、刀傷の跡などが
生々しく残っているんですね
・勧進橋(かんじんばし)
京都府京都市南区東九条柳下町/伏見区深草西川原町
新選組5番隊組長である武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)が
3番隊組長、斉藤一(さいとうはじめ)に
粛清された場所と言われています。
武田観柳斎は薩摩と内通していたとの情報を近藤・土方が得て
暗殺を計画したそうです。
下手人である斉藤一は背後から袈裟斬りに
一刀両断だったみたいですよ。
※武田観柳斎は、『るろうに剣心』に登場する武田観柳のモデルとなった人物で作中の通り性格は悪かったそうですよ。
・旧前川邸(きゅうまえかわてい)
京都市中京区壬生賀陽御所町49
八木邸と同じく、新選組の屯所であった旧前川邸です。
※八木邸と旧前川邸は、道を挟んですぐの場所に建っています。ちなみに、前川邸は邸内の見学をする事は出来ません。
ここでは
古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)に対する取調べ(拷問)が
行われました。
この取調べは、後の『池田屋事件』に繋がるもので
彼を厳しい拷問にかけて吐かせた事により
新選組は、長州藩士らによる計画を
知る事となるんですよ。
※古高俊太郎に対する取調べについては、木屋町界隈の史跡 その2の記事をご覧下さい。
・池田屋騒動之址(いけだやそうどうのあと)
京都府京都市中京区三条通河原町東入中島町82
一躍、新選組の名を轟かせた『池田屋事件』とは
新選組が、旅籠屋である池田屋に集まっていた
長州藩士らを襲撃し
彼らの計画していた犯罪を未然に防いだという事件です
ちなみに、その計画とは
長州藩を中心とする尊王派が、風の強い日を選んで御所に火を放ち
佐幕派大名らを殺害して、天皇を拉致し
長州に連れて行くといったものでした
こうして
京都の町を、この計画から守った新選組は
一躍その名を上げたんですね
※池田屋事件について詳しくは木屋町界隈の史跡 その2をご覧下さい。
・西本願寺(にしほんがんじ)
京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60
『池田屋事件』で名を上げた新選組は
結成当初の10倍ともなる、200名以上の隊員に膨れ上がっていました。
こうした事から西本願寺にある『北集会所』と『太鼓楼』という建物を
屯所として利用するようになりました。
※現在、北集会所の方は姫路の本徳寺に移築されています。ちなみに北集会所の広さは約600畳もあったそうですよ。
ちなみに、西本願寺は
隠れて長州藩(幕府と敵対していた藩の1つ)の
バックアップをしているとの情報もあった事から
それを牽制する為に屯所としたそうです。
・光縁寺(こうえんじ)
京都府京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37
この西本願寺の屯所移転について、近藤や土方は
同士であった山南敬助(やまなみけいすけ)と対立します
結果的に山南は新選組を脱走しますが、沖田によって連れ戻され
切腹となりました。
光縁寺には、その山南敬助のお墓に加え
河合耆三郎(かわいきさぶろう)ら隊士16名の共同墓地などがあります。
※山南敬助や『屯所移転問題』について詳しくは光縁寺の記事をご覧下さい。
・不動堂屯所跡(ふどうどうとんしょあと)
最後の屯所となった不動堂村です。場所は西本願寺から更に南へ下がった地域になります。
・伊東甲子太郎外数名殉難之跡(いとうかしたろうほかすうめいじゅんなんのあと)
京都府京都市下京区木津屋橋通油小路上ル東側
元新選組のメンバーであった
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らが
新選組によって暗殺された『油小路事件(あぶらのこうじじけん)』が起こりました
新選組の参謀として活躍していた伊東甲子太郎でしたが
尊皇の考えから
局長の近藤らと意見が対立するようになりました。
結果的に伊東は
同士14名と供に御陵衛士(ごりょうえじ・高台寺党)を結成します。
御陵衛士は高台寺塔頭の月真院(げっしんいん)を屯所としていました。
近藤勇は伊東を高く買っていた事もあり
しばらくは様子を伺っていました。
しかし、新選組の局中法度では
隊を辞める事は死罪に値するという点や
スパイとして御陵衛士に入り込んでいた斉藤一(さいとうはじめ)から
自身の暗殺計画がある事を知り
伊東甲子太郎らを殺害する事を決意します。
近藤は
伊東甲子太郎を呼び寄せ、酒を呑ませ
酔った伊東を、新選組に襲わせたんですね。
これに加え
彼の死体をエサに、藤堂平助ら御陵衛士をおびき寄せ
ほとんどの御陵衛士を抹殺したそうです。
この事により、御陵衛士は事実上、解散したそうですよ
・近藤勇遭難の地(こんどういさみそうなんのち)
京都府京都市伏見区深草越後屋敷町8
近藤勇がこの付近で
二条城で京都町奉行所若年寄である
永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)との軍議を終え
伏見奉行所までの帰り道
1867年(慶応3年)の12月18日夕刻
ある者らに狙撃された場所です。
ちなみに、この後
大政奉還(たいせいほうかん)が起こり、鳥羽伏見の戦いが始まるんですね。
※大政奉還については二条城 その1の記事をご覧下さい。
『鳥羽伏見の戦い』では
刀の戦いを得意とした新選組も、新政府軍の砲撃には勝てず
新選組は、結果的に江戸へと敗走します
近藤は後に捕縛され斬首となり、首は京都の三条河原へと晒されました。
その後、病に伏せていた沖田総司も
結核により病死します
土方歳三は、この時
新政府軍(明治政府)との戦いにおいて転戦を繰り返していました。
会津に立ち寄った際は
白虎隊(びゃっこたい)の子供達からは母親のように
慕われていたそうですよ
そんな土方も、最後まで新政府軍と戦いますが
函館の『五稜郭の戦い(ごりょうかくのたたかい)』において
新政府軍の鉄砲を受け、落馬し命を落としたと言われています。
その瞬間・・・
事実上、新選組は
その短い歴史に幕を下ろしたと言えるでしょう。
こうして日本史上最強の剣客集団が消滅しました。
そんな新選組ゆかりの場所はコチラ↓
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