2013-05-22 | |
テーマ:ゆかりの地巡り |
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聖徳太子ゆかりの地巡り
今回ご紹介するのは『聖徳太子ゆかりの地巡り』です
飛鳥時代の皇族である聖徳太子は
『冠位十二階』や『十七条の憲法』を定め、天皇を中心とした国作りを行なった政治家です。
しかし、残されている資料も少なく
謎の多い人物とも言われているんですね。
574年、用明天皇(ようめいてんのう)の第2皇子として生まれ
当時は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていました
※聖徳太子という名前は死後付けられたと言われています。
そして、聖徳太子が政治家として活躍したのは
我が国、最初の女帝天皇『推古天皇(すいこてんのう)』の時です!
この時に
聖徳太子が初の摂政(せっしょう)となり
天皇に代わり政務を執りました
※摂政とは、天皇が女性の時や天皇が病気の時、天皇が子供の時に、天皇に代わって政治を取り仕切る役職です。
そんな聖徳太子は
天皇を中心とした国作りを率先して行ないます。
遣隋使を派遣し
日本以外の国の文化や制度を学びました。
ちなみに、遣隋使にまつわる有名なお話として
607年に、聖徳太子は隋の煬帝(ようだい・当時の皇帝)に対して
有名な国書を送っています。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」
つまり、日が昇る国(日本・当時倭国)の天皇から
日が落ちる国(隋)の皇帝へ!という文章だったんですね。
天子とは中国(隋)において天帝(てんてい・神様)に代わり
世の中を治める者の事を指します。
つまり、その天子という言葉は、中国の皇帝のみが使えるものだったのに
日本が使用した事に腹を立てたんですね。
※ちなみに、この国書を持っていったのが、小野妹子です。
こうして隋と対等外交を目指し
近隣諸国にアピールして
日本の立場を高めようと試みたワケですね。
煬帝を怒らせても大きな問題にはならないと日本は踏んでいました。
なぜなら、隋は当時、高句麗と交戦中だったからです。
隋は高句麗と交戦中にもかかわらず
日本とも関係を悪化させたくなかったのではないでしょうか?
話がそれましたが
冠位十二階とは
身分に関係なく、有能な人材を投与する目的のもと作られた制度で
それぞれを冠の色によって『位』を区別したものです。
※徳(とく)仁(じん)礼(れい)信(しん)義(ぎ)智(ち)という6つの位に、それぞれ大(だい)小(しょう)という更に細分化した位を設け、合計で12の位を制定しました。
先祖代々受け継いでいる役職や
身分に関係なく個人の能力に合わせ
それぞれに見合った位を授けたのです。
分かりやすく言えば
がんばった分だけ出世が出来るシステムこそが、この冠位十二階なのです
※小野妹子もこの制度により出世した人物だと言われています。
十七条の憲法とは
政治に対する考え方や、天皇を中心とした国作りに対する心構えなどが
明文化されたものです。
「和を尊重しましょう」「仏教の教えを大切にしましょう」
「天皇の命令には従いましょう」「民衆こそが国の宝です」
「国の一大事の時はみんなで話し合って決めましょう」
といったものが書かれていました。
『十七条の憲法』に盛り込まれている事からも分かるように
聖徳太子は率先して、仏教を日本に広めていったんですね。
では早速、聖徳太子ゆかりの地をご紹介したいと思います
・広隆寺(こうりゅうじ)
京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
603年に聖徳太子が、太秦(うずまさ)の地方豪族であった
秦河勝(はたのかわかつ)に仏像を与えた事により建てられた
蜂岡寺(はちおかでら)を起源とするお寺です。
堂内には本尊・聖徳太子像(通常非公開)が安置されています
※聖徳太子像は、年に1度の『聖徳太子御火焚祭』においてご開帳となります。
・六角堂(ろっかくどう)
京都府京都市中京区六角町東洞院西入ル堂之前248
正式名称を頂法寺(ちょうほうじ)と言います。
聖徳太子が立てかけた如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)が
動かなくなってしまった為に
六角形のお堂を作り、その場に祀った事を起源とするお寺です。
※動かなくなったのは、観音様がこの地に留まり、衆生を救う事を希望したからだと言われています。
聖徳太子は四天王寺(大阪)を建立する為の用材を求めて
この地にやって来ていたそうで、休憩がてら、身体を洗う為に
如意輪観音像を立てかけたようですね。
※六角堂について詳しくは六角堂(頂法寺) その1、六角堂(頂法寺) その2の記事をご覧下さい。
・放生院(ほうじょういん)
京都府宇治市宇治東内11
京都の宇治市にあるお寺です。
604年に聖徳太子の命令により建立された寺と伝えられ
広隆寺と同様に、秦河勝が宇治川の側に
お堂を建てた事を起源とします。
宇治川に架かる橋・宇治橋の守り神とも言われる事から
通称『橋寺』の愛称で親しまれているお寺です
・上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)
京都府京都市北区紫野十二坊町33-1
聖徳太子が創建した寺と伝えら
当初は香隆寺(こうりゅうじ)と呼ばれていました
※一説では、聖徳太子が母親の菩提寺として創建したとも言われています。
その後、平安時代中期に宇多法皇から勅願を受けた
寛空(かんくう)というお坊さんにより再興され
名前を『上品蓮台寺』に改めらためたそうですよ。
・聖徳太子社(しょとくたいししゃ)
京都府京都市西京区松室山添町15
聖徳太子社は月読神社境内にある社です。
月読神社は1500年以上も前に建てられた神社で
月讀尊(つきよみのみこと)を祭神として祀っています
※月讀尊はその名の通り、月を神格化した神様です。古事記において、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の右目から生まれた神様と言われ、太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)とは姉妹になります。月読神社に関しては月読神社(松尾)の記事をご覧下さい。
一説では、聖徳太子は月讀尊を崇拝していたと言われ
こうした理由から月読神社境内に
この社が建てられたのかもしれませんね。
という事で今回は聖徳太子ゆかりの地巡りをご紹介しました
場所はコチラ↓
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