2010-12-27 | |
テーマ:お寺 |
関連:泉涌寺 その2 / |
泉涌寺
こんにちは、京子です
さてっ。
本日は皇室とゆかりのある「御寺(みてら)」として
大変有名な
泉涌寺(せんにゅうじ)です!
寒空の広がる京都市内ですけれど
鼻水をすすりながらっ(笑)
本日も、レポートしたいと思いますっ
まずは、こちらが総門になりますね~
こま札がありますので、読んでみますと・・・
泉涌寺の起源は
弘法大師「空海」の草庵(茶室)を結んだ事から始まるそうです
空海というお坊さんは
平安時代、遣唐使として派遣され、「真言密教」を持ち帰った
天才と呼ばれ、達筆でも知られているすんごい人なんですよね~。
そして、泉涌寺と名を改め開山したのが・・・
月輪大師(がちりんだいし)とも呼ばれている
俊じょう(草冠に仍)(しゅんじょう)というお坊さんなのです!
彼が、宋から日本へと帰ってきた後
この場所から清水が湧き出た事から
寺号を泉涌寺と改め始めたのですね。
※ちなみに、この泉涌寺は月輪山(つきのわやま)と呼ばれる山の山麓にあります。名前も月輪大師から取られたのでしょうか
そして!いよいよ、見えてきました。
山門ですね
門から中の様子がちょっぴり見えています。
・・・っとその前に
こちらにも書かれていますけれど
そもそも「御寺」というのは
一体どういうものなのか
それは、ズバリ!
一言で言いますと・・・
(・∀・)ノ歴代の天皇・皇后の御葬儀が行われていたお寺なんですね♪つまり、皇室の菩提寺となっているんですね。
1214年に四条天皇が崩御され、泉涌寺に葬られたのが始まりで、その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇と江戸時代、後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を行っています。
うーん、すごい
御寺と呼ばれる理由がわかりますよね~
ではお話を戻しましてっ、
実は、こちらの泉涌寺には
とっても珍しい観音像があるんですけれど
それをご紹介したいと思います
山門を入って左手に行くと見えてくる・・・
楊貴妃観音堂(ようきひかんのんどう)
そうです、この中に祀られているのが
楊貴妃観音象(ようきひかんのんぞう)なんです
※残念ながら撮影禁止だったのです
さて、これはどんな象なのか??
・・・という前に
楊貴妃とはどんな女性だったのかをご説明させて頂きますと
彼女は唐の皇妃であり、世界三大美女の一人としても有名ですよね~。
こちらは楊貴妃観音堂前の願かけ地蔵。
楊貴妃は17歳の時にその美貌を買われ
唐の6代目皇帝「玄宗(げんそう)」の息子の妃(きさき)になるんですけど・・・
彼女から見れば義理の父である玄宗が
な~んと!!
彼女の美しさによって政務をそっちのけで溺れてしまうんですね~
ちなみにどれくらい彼女の事が好きだったかと言うと
彼女の家族、親戚までもが玄宗によって高い地位に取り立てられ
叔父や従兄弟達も官位を授けらる程なんですらビックリ!
うーん、スゴい話ですよね。
( ´Д`)女性は・・・やっぱり顔・・・?(汗)
そんな、すっかり彼女の虜になってしまった玄宗が
亡き彼女の冥福を祈って作られた像というのが
こちらにある、楊貴妃観音象だったんですね
楊貴妃観音には縁結びのご利益や観音様にお参りすると美人になると言われているんですね~。
では、次にっ。
山門から右手にあるのは・・・
浴室です!
こちらは寛文期(1661~1672)に再興された建物なんですね~。
そして、そして
こちらの経蔵(きょうぞう)は
昭和12年の建設工事に宮内省からも費用が負担されたそうですよ!
さすが、御寺ですね~。
では、いよいよ境内の中間ゾーンへと足を運びましょう
ちなみに泉涌寺の境内は広く
じっくり見て回ると軽く1時間ほどかかりますっ♪
境内には陶器がいたるところにありました。
二代目山川巌さんという方が泉涌寺で茶道陶器を創作されていたそうですよ。
あるのではないでしょうか??
はいっ!では、まずはこちらの・・・
仏殿ですね。
徳川家綱により再建されたと伝えられる仏殿ですけれど、毎年3月に行われている「涅槃会」では日本最大の涅槃図がこの仏殿で公開されるんですね♪
※涅槃図というのはお釈迦様が横たわったご臨終の様子を描いたもので人や鳥、獣などが、みんな嘆き悲しみ泣き伏している絵の事です。
さて、ここで
天皇家のお寺、菩提寺に関してお話させていただきますと
天皇家がお墓に入るというのも少し不思議に思いますよね
天皇は神話に出てくる神様の祖先で神道とは密接な関わりを持っています。
しかし、当時の日本は仏教や神道のどちらの習慣も受け入れていたんですね。
その証拠に741年時の聖武天皇は国分寺建立の詔(みことのり)を出し、以後の全国に護国寺を作らせます。743年には大仏造立の詔も出しています。この事からも、天皇もどちらかというと仏教色の方が、歴史上は強かったと言えます。
では、いつ頃から「天皇=神道」というようなイメージが定着したのでしょうか?
それは明治になって
「これまでの神仏習合(しんぶつしゅうごう)を止めよ!」という
明治政府の命令(神仏分離令)が出されて
それから、天皇家の行事は神道形式に乗っ取って
やるようになるんですね。
神仏習合とは簡単に言うと
神様と仏様が一緒に祀られたり
神社の中に観音様があったり
お寺の中に鳥居があったりという状態ですよね。
どちらの神様も共存出来きていたんですね。
神仏分離令によって大きく打撃を受けたのは、お寺です!
では、それまでのお寺はどのような感じだったのかと言いますと
民衆はみんなどこかのお寺に所属していたのですね
どういう事かと申しますと江戸時代、徳川幕府によって行われた
寺請制度(てらうけせいど)により
「皆さん、この国に住んでいる以上、必ずどこかの寺に所属しましょう!」
という決まりが出来たのでした。
こちらは仏殿の隣に建っています舎利殿(しゃりでん)。
では、この寺請制度の裏側にはどんな目的があったのか??
まず1つ目。
キリスト教や不受不施派(ふじゅふせは)を排除する為なんですね♪
改宗を強制する事が狙いで、無理やり強引にお寺に所属させちゃったワケです。それまでにも、「踏み絵」などをさせ、隠れキリシタンを暴いたりしていましたよね。これで、仏教かそうじゃないかがひと目で分かりますよね。
そして、2つ目。
民衆をお寺で管理する事により、今で言う市役所の役割をお寺は請け負ったのです。
どんな人間でも、どこかの寺に所属するワケですから民衆の管理は簡単になりますよね。そして、住民票や戸籍謄本の役割を持つ「宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)」をお寺が管理したんですね。
ちなみに、お寺に関しても、
中には武力を持つところもあり
江戸幕府からすれば注意しなければならない存在のひとつでした。
しかし、それを「役所代わり」にさせる事で
寺自体を管理しやすく作り変え、幕府サイドに取り込むのです。
そして宗教統制の為に
「本山」「末寺(まつじ・本山の支配下にある寺)」の制度を本末制度として強化しそれぞれのお寺の「縦関係」を作り幕府は各宗派の本山を統制する事で、仏教界全体を管理する事が出来たんですね♪
※諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)と呼ばれるお寺の決まりごとも発行されました。
うーん確かにこれなら管理しやすいし
末寺で問題が起こらないように
本山も目を配りますし
全ての寺を幕府だけで管理するより
こっちの方が早くて楽ですよね♪
それにより、幕末までは
お寺には沢山の人が集まり潤っていたんですけど・・・
明治政府より出された神仏分離令によってピンチとなちゃったワケです。
神社から仏教的なものを払拭する事により
仏教を排斥したようなイメージを与えたのかどうかはわかりませんが
こういった流れから
民衆は「今まで自分たちがお寺に摂取されていたんじゃないの?」と思うような人たちが
現れました。
その中で
悪名高い
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こるんですね。
つまり、仏具の破壊です
このままではいけないと思ったお寺のお坊さんは
仏教から神道へと様変わりしようとします。
廃仏毀釈によって、日本の文化的な遺産が数多く破壊されたと言います。
あまりなじみが無いかもしれませんけれど
文化の破壊というのは日本でも過去にはあったんですね。
このまま、仏教はどうなるの??と心配されていたところに
一人の救世主が現れます
それが島地黙雷(しまじもくらい)という明治期のお坊さんです。
神仏分離の廃止を主張し、仏教各宗の近代的独立の為に尽力した人物だと言われているんですね。
彼が言いたかった事は
「あなた方、ご先祖様は天国に行かれてますけど
それって仏様のおかげでしょ?
お経を読んでもらったりしてるでしょ?
それが・・・急におかしいじゃないの??」
という事なんですね
さて、長くなりましたけれど
では、早速っ!
数々の天皇が眠るゾーンへと足を運びたいと思いますけれど
・・・本日はココまでっ
なかなか広々した境内の泉涌寺は一日では紹介しきれませんっ♪
明日、後編をアップしたいと思います~。
そんな泉涌寺の場所はコチラ↓
大きな地図で見る
最寄の交通案内
京阪電車 京阪本線 東福寺駅(とうふくじえき)
市バス 202・207・208系統 泉涌寺道(せんにゅうじみち)
雑談掲示板 新着