2014-01-21 | |
テーマ:史跡 |
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菅家邸址
今回は、学問の神様で知られる
菅原道真(すがわらのみちざね)ゆかりの石碑を
ご紹介したいと思います。
それが・・・
菅家邸址(かんけていあと)です
学問の神様で知られる菅原道真の
邸宅があった事を示す石碑で、場所は京都市下京区になります。
※菅家とは菅原家の事です。
ここには2つの邸宅があったとされていて
現在、その場所には菅原家を祀った神社が建っています。
・白梅殿(はくばいでん・菅原家の邸宅)⇒菅大臣神社
・紅梅殿(こうばいでん・道真の邸宅)⇒北菅大臣神社
この2つは離れているわけではなく、仏光寺通(ぶっこうじどおり)をはさみ
南北に分かれて建っていたようで
広さは南北二町、東西一町あったと言われています
ちなみに、一町は長さの単位であり、約109メートルです。
なので邸宅の敷地はおよそ23,762平方メートル!
坪数でいうと7200坪ですっ。
大豪邸ですよね~
あの清少納言も、枕草子(まくらのそうし・3大随筆の1つ)の中で
この邸宅を絶賛しているそうですよ
ちなみに、石碑は白梅殿跡(菅大臣神社)、紅梅殿跡(北菅大臣神社)に
それぞれ建っています。
※写真は白梅殿跡を示す菅家邸址の石碑となっています。向かい側には紅梅殿跡を示す石碑も建っています。
菅原道真についても簡単にご紹介しますと
『学問の神様』で知られる道真は
平安時代初期の学者・文人・政治家であり
宇多天皇(うだてんのう・第59代天皇)に重用され
秘書にまで大出世したんですね
※北野天満宮では、学問の神様として祀られています。
しかし、当時、左大臣だった藤原時平(ふじわらのときひら)に
デマを流され、無実の罪を着せられ
大宰府(だざいふ・現在の福岡県)に左遷され、悲しい最後を遂げました。
※菅原道真について詳しくは、北野天満宮 その2や、菅大臣神社 その1の記事をご覧ください。
天皇の秘書まで上り詰めた道真は大変頭が良く
中国の歴史や漢文を教える
文章博士(もんじょうはかせ)も務めていたとも言われています。
そもそも、菅原家は代々頭の良い家系みたいで
清公(きみきよ・道真の祖父)
是善(これよし・道真の父)
道真という三代に渡り、この地で私塾を開いていたそうです
もとは山陰亭(さんいんてい)と呼ばれる書斎で
教えていたそうですが、その評判は徐々に広がり
生徒が増加すると、中門廊(ちゅうもんろう・渡り廊下)を使って
講義が行われるようになりました。
これを菅家廊下(かんけろうか)と呼び、後世にまで伝えられています。
※この事からもわかるとおり、道真はこの地で生まれ、幼少の頃からここで過ごしたと言われていますが京都にはこの他にも道真出生の地と呼ばれる場所があります。これらの場所については、菅原院天満宮神社・吉祥院天満宮の記事をご覧下さい。
さて、この白梅殿や紅梅殿の名は
道真が整然、梅を大変愛していた事から名付けられたようで
当時、邸宅内に見事な梅が咲いていたようです
しかし、大宰府に左遷される事になり
この邸宅に咲く梅とも離れなくてはならなくなりました。
そんな道真が都を去るにあたり
詠んだ唄があります。
「東風吹かば にほひ(匂い)おこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
東風とは春風の事で
主なしとは、主を失った梅の木を指します
つまり
「春風が吹けば、その香りを私の所まで届けておくれ。
主人がいなくなったとしても、春を忘れないで。」
と梅に向かって詠んだんですね。
そう道真は言い残し、道真は都を去りました。
しかし、道真が去った後
主を失った梅の木は、道真を追いかけ
この京の地から太宰府まで一夜で飛んでいったと言われています
この事から、その梅は『飛梅(とびうめ)』と呼ばれ
現在も、邸宅跡に建つ菅大臣神社にて
その梅を見る事が出来るんですよっ
※飛梅について詳しくは、菅大臣神社 その2の記事をご覧下さい。
という事で今回は、菅家邸址をご紹介させていただきました。
菅家邸址の場所はコチラ↓
より大きな地図で 菅家邸址 を表示
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