2014-01-03 | |
テーマ:史跡 |
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本間精一郎遭難之地
今回は、幕末ゆかりの石碑を1つご紹介したいと思います。
それは・・・
本間精一郎遭難之地(ほんませいいちろうそうなんのち)です
これは、土佐藩邸や長州藩邸からも程近い場所に建つ石碑で
1862年、この場所で彼は
幕末四大人斬りで有名な岡田以蔵(おかだいぞう)ら数名によって
暗殺されたと言われています。
まず、本間精一郎とは一体、どんな人物だったのか?
簡単にご説明したいと思います。
彼は幕末の勤皇志士であり
尊王攘夷派(そんのうじょういは)だった人物です
※尊王攘夷派とは『天皇を中心に、外国人を排除した国作り』を思想とするもので、当時、幕府と対立をしていました。
本間精一郎は越後国(えちごのくに・現在の新潟県)の商家出身で
早くから江戸に出て、勘定奉行・川路聖謨(かわじ としあきら)に仕えたそうです。
※家はかなり裕福な家系だったようですね。実家では代々、酢や醤油の醸造業を行っていたそうで、彼はそこの長男だったみたいですよ。
その後
清河八郎(きよかわはちろう・新撰組結成のきっかけになった浪士組を結成した中心人物)
と出会った事や『安政の大獄(あんせいのたいごく)』が行われた事をきっかけに
京にやって来て、尊王攘夷運動に身を投じたと言われています。
ちなみに、清河八郎は尊王攘夷派として知られる
有名な人物なんですよっ
※安政の大獄については、金福寺の記事をご覧下さい。清河八郎や浪士組については、新撰組ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
さて、本間精一郎はどんな人間だったのかと言うと
文武両道で、おまけに口も達者っ!だったそうです。
しかし、その反面、他人を軽く見てしまうような一面もあったようです。
そんな本間精一郎は、この京の地で
公卿らと尊王攘夷論を掲げ、倒幕を訴え
尊王攘夷派の中でも、かなり目立った存在になりました
※一説には、急進派(過激派)として活躍していたとも言われています。
当時、京都の尊王攘夷派といえば
長州藩士や土佐藩士が中心です
その点、本間精一郎はどの藩にも属していなかった為
自由に行動出来たようですね
しかし、彼の出すぎた行動は
同じ尊王攘夷派たちの反感を買う事となり
とうとう暗殺の計画が持ち上がったと言われています。
※この他にも、『貧しい出の浪士たちと反りが合わなかった。』『幕府に通じているのでは?』など暗殺にいたる理由や説は様々あるようです。
ちなみに首謀者は土佐藩の武市瑞山(たけちずいざん・半平太)だと
一説では言われているみたいですよ。
1862年、こうして本間精一郎暗殺計画が実行される事となりました。
この日、土佐や長州の仲間から
たらふく酒を飲まされた本間精一郎は
先斗町(ぽんとちょう)から、木屋町通に向けて
千鳥足でふらふらと歩いていたと思われます
・・ちょうどその時でした。
彼の前に、幕末四大人斬りで知られる岡田以蔵や田中新兵衛(たなかしんべえ)
以下、数名が立ちはだかります!
危険を感じた本間精一郎は
狭い路地へ逃げ込もうとしますが
向こうからも追っ手が・・・そうです、挟み撃ちに合うんですね。
逃げ場を失った本間精一郎はその場で斬殺。
享年、29歳でした。
死体は近くを流れる高瀬川に捨てられ
首は四条河原に晒されたそうですよ。
ちなみに現場に建つ家屋の一部には
『岡田以蔵の刀痕』と思われるような傷跡も残されているそうです。
事実かどうかは、ちょっと分かりませんが
これを見ると、生々しい現場の様子を
思わずイメージしちゃいますね。
ちなみに、木屋町や先斗町は、バーなど、お酒の飲めるお店が多く
観光客も多数訪れる人気スポットの1つです
しかし一昔前は、本間精一郎以外にも
多くの血が、この場所で流れたと言われています。
そんな本間精一郎遭難之地の場所はコチラ↓
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