2014-01-31 | |
テーマ:史跡 |
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天明伏見義民顕彰碑
今回は、京都市伏見区(京都市南部)に建てられた
ある石碑をご紹介します!
それは・・・
天明伏見義民顕彰碑(てんめいふしみぎみんけんしょうひ)です!
この石碑は一言で説明すると
天明期(江戸時代中期・1781年~1789年)に
伏見を救った人々を讃える石碑なんですねっ。
この時代に起こった、ある出来事がきっかけで
顕彰碑(功績や善行などを讃えた碑)が建てられました。
では、さっそく詳しく解説したいと思います
伏見は当時、交通の要所であり商業地でした。
政治的にも経済的にも重要な場所であり
幕府直轄地として、伏見奉行所が置かれました。
ここを取り仕切っていたのが・・
伏見奉行・小堀政方(こぼりまさみち)です。
小堀家は代々、伏見奉行を務めていて
彼は六代目にあたる人物です
※ちなみに、二代目は、茶人や作庭家として知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)です。彼も伏見奉行を務めています。
彼も父親を継ぎ、伏見奉行の役職に就きましたが
莫大な御用金(ごようきん)を数年に渡り町民に課していました。
そうです、一言でいえば悪政
幕府の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の権威を借り
好き勝手に私服を肥やしていたというワケなのです。
その金額は・・・
7年間で10万両とも言われています!
今の価値で数十億円ってトコですね。
これにより苦しめられた伏見の人々。
どうにかしようと、まず最初に立ち上がったのが
彼の担当医でもあった水島幸庵(みずしまこうあん)です。
しかしながら、彼の訴えは聞き入れてもらえず
結果的に、自刃にまで追い込まれてしまうんですね・・・
つまり、『伏見奉行にたてつくと、恐ろしい事になる!』
そう肌で感じた伏見の人々でしたが
4年後の1785年(天明5年)
さすがに我慢ならない!と立ち上がったのが
文殊九助(もんじゅくすけ)
丸屋九兵衛(まるやきゅうべえ)
麹屋伝兵衛(こうじやでんべえ)
伏見屋清左衛門(ふしみやせいざえもん)
柴屋伊兵衛(しばやいへえ)
板屋市右衛門(いたやいちえもん)
焼塩屋権兵衛(やきしおやごんべえ)
の7名。
彼らは伏見で農業や商売をしている人々であり
後に讃えられる事となった伏見義民のメンバーです
不条理な御用金に耐えかね
伏見を飛び越え、江戸まで直訴する計画を立てたのです。
そこで代表として江戸に向かったのが
文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛の3名。
しかし、この直訴の動きを察した小堀政方は
追手を放ち、伏見を飛び出した彼ら3人を捕まえようとします。
これは完全に、命を捨てた行動と言えるでしょうね。
「どうしても伏見の人たちを救いたい。」
そんな思いで、彼らはまさに命をかけて
江戸まで直訴に向かったのです
メンバーの中には高齢者の者もおり
道中は大変厳しいものだったと思われます。
その証拠に、追手から逃れる為にかくまってもらった
陽岳寺(ようがくじ・東京都江東区)にて
麹屋伝兵衛は死去します。
しかし、彼らは悲しみに暮れる余裕などありません。
残り2人となりますが、最後の力を振り絞って
江戸城より下ってきた
寺社奉行・松平宗秀(まつだいらむねひで)の行列籠に
訴状を持って決死の直訴をしますっ
これが聞き入れられる事となり
小堀政方の悪政が発覚。
伏見奉行を解任、領地も没収となり
伏見町人らの目的は達せられたというワケです。
しかしながら、伏見を飛び出した文殊九助と丸屋九兵衛は
江戸にて再吟味(さいぎんみ・事件の再調査)中に死去。
結局、彼らは伏見の地を踏む事なく
最後を迎えたというワケです
こうした事から、伏見を救った英雄(伏見義民)を讃え
約100年後の1887年、御香宮神社の境内に
建てられる事となりました。
※碑文は勝海舟(かつかいしゅう・幕臣)、題字は三条実美(さんじょうさねとみ・公家)によるものだそうですよ。
ちなみに毎年5月18日には
伏見義民顕彰会の方による慰霊祭が行われているそうです
気になる方は足を運ばれてみてはいかがでしょうか?
そんな天明伏見義民顕彰碑の場所はコチラ↓
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