2011-05-26 | |
テーマ:神社 |
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吉祥院天満宮
こんにちは京子です
さて、本日ご紹介する神社は・・・
吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)です
さて、天満宮と言えばもうお分かりですよね?
学問の神様で有名な菅原道真が祀られている神社です
道真という人は朝廷に仕えていた人物で
頭が良くて、どんどん出世する事となるんですけど
時の左大臣だった藤原時平(ふじわらのときひら)と対立し
デマを流された挙句に、左遷されちゃうという悲しい運命を持っている人物であります。
※一連の出来事を「昌泰の変(しょうたいのへん)」と言います。
結果的に道真は左遷され、最後まで京に戻る事が出来ず、不遇の死を遂げるんですね。
その後、公卿の死や落雷などが道真の祟りであると言われ
彼の怒りを鎮める為に全国に天満宮が建てられる事となりました。
中でも一番有名なのが、北野天満宮ですけれど
一番最初に作られた天満宮がこちらの吉祥院天満宮なんですよ~
道真は生まれが丑年だったとか、丑を可愛がっていたなど関係が深いと言われてますよね。
こちらは拝殿になります。
拝殿前には神馬の像もありました。その昔、神社では馬を奉納する慣わしがあったんですね。
では、次に吉祥院天満宮の「吉祥院」って何なのかと申しますと・・・
もとは、この吉祥院天満宮にも祀られている吉祥天女(きちじょうてんにょ)という神様から取られた言葉です♪
道真の祖父である清公(きよきみ)が、遣唐使として渡航した際に嵐に巻き込まれるんですね!
※この時、高僧である空海・最澄らと供に入唐したとも言われています。
当時は、日本を離れ、唐に渡るなんて命がけの事だったんです。
そして、そんなピンチを助けてくれたのが、吉祥天女なんですね。
境内にも、吉祥天女が祀られている「天女社」があります。
彼女は空から現れ、あっという間に嵐を沈めて帰って行ったといいます。
命拾いした清公は、帰国後、吉祥天女の像を彫り自宅にお堂を建て、祀ったと言われ
清公の息子にあたる是善(これよし)が、その代々続く菅原家の地を「吉祥院」と名付けました。
ちなみに、是善の息子が、道真ってコトですよ♪
吉祥院天満宮は別名、吉祥院の天神さんとも言われています。
拝殿右手には、末社が並んでいました。手前から白太夫社・松梅社・吉野社・金毘羅社・秋葉山です。
それが、ちょうど吉祥院天満宮のある場所であり
吉祥院という地名は現在も残っていまして
場所でいうと、ちょうど東寺から少し西南の方角に位置します。
つまり、菅原家代々の土地である事から
一説では、吉祥院が菅原道真生誕の地だと言われています!
※この他に、菅大臣神社や菅原院天満宮神社も、道真生誕の地という説があるんですよ。
つまり、道真の祟りを鎮める第一号の天満宮を作るには
吉祥院はバッチリの場所なんだという事がおわかりいただけると思います
では、ここで道真に関するものも境内には
多数ありますので、ご紹介させていただきますね♪
硯之水(すずりのみず)
道真は文字の習得や勉学に励む上で
井戸水で硯を研ぎ、毎日のように字を沢山書いていたと思われます。
この水を使い、筆で字を書けば・・賢い道真にあやかれるかもしれませんね♪
こちらは、道真のへその緒が埋められたと言われている
胞衣塚(えなづか)です。
柵の中には、丸い石が埋められていて、これがおヘソを表しているのかな?と思いました。
※胞衣とは子供が生まれてくると同時に出てく胎盤の事です。
これは道真が顔を映したとされる井戸で
鑑(かがみ)の井と言います。
この井戸を使い、毎朝、身だしなみのチェックをしてたんでしょうかね~??
934年に、朱雀天皇の勅命に建てられた
吉祥院天満宮では
道真の祟りを鎮める為に、和歌や俳句を読み上げる宴が繰り広げられたとも言われています
道真の絵馬もバッチリありました~
鑑の井の隣にありました「弁財天社」です。
ちなみに、吉祥院天満宮と言えば
吉祥院六斎念仏(きっしょういんろくさいねんぶつ)が春と夏に行われています。
笛や太鼓に合わせて踊る伝統的なお祭りで
もとは平安時代のお坊さんである空也の
踊念仏が起源だそうですよ。
民衆の娯楽のひとつで、国の無形文化財にも指定されているこのお祭り♪
始まったきっかけは
戦国時代、「山崎の戦い」において、
秀吉軍により追い詰められた、明智光秀の残党が、この吉祥院の地で多数戦死したそうで
彼らを弔う為に始められたと言われているんですね~
そんな吉祥院天満宮の場所はコチラ↓
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