2013-10-03 | |
テーマ:史跡 |
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土佐藩邸跡
今回ご紹介するのは・・・
土佐藩邸跡(とさはんていあと)です
京都における、土佐藩の活動拠点であり
幕末には、武市半平太(たけちはんぺいた・瑞山)や
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
そして坂本龍馬など
土佐出身の人間が出入りしていた事で知られています。
場所はドコか?と言いますと
京都の繁華街である河原町(かわらまち)にあったんですね
※石碑は土佐藩邸跡の石碑は、南北を走る『木屋町通り』沿いに建っています。
ちなみに、現在この場所には
立誠小学校(りっせいしょうがっこう・1993年に廃校)
の校舎が建っています
※詳しい場所は記事の下部にある地図をご確認下さい。
では、続いて・・
土佐藩邸の広さはどのくらいあったのか!?
と言いますと、10,000㎡(約3000坪)程だと言われていますっ。
これだけ聞くと、かなり広いなぁと思いますけど
『薩長同盟』が行われた薩摩藩邸(現・同志社大学)の大きさは
なんと・・・その倍に近い
5805坪(9000㎡)もあったそうです!
広すぎます
※薩摩藩邸は京都に3つあり、薩長同盟が行われたのは二本松藩邸(にほんまつはんてい)になります。『薩長同盟』に関しては木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。
ということで、気になったので長州藩邸の広さについても
調べてみると、大きさは土佐藩邸と同じく約3000坪でした~。
さて、幕末のヒーロー『坂本龍馬』も
足を運んだと言われる土佐藩邸ですが
実際にはあまり寄り付かなかったようですね。
ですが、彼が土佐藩邸に足を踏み入れた事は、史実として残されているそうです
龍馬は当初、脱藩の身であり罪人でしたが
江戸にて勝海舟に弟子入りした事がきっかけで、彼のとりなしにより
山内容堂(やまうちようどう・元土佐藩主)から『脱藩の罪』を許されたんですね。
この時、土佐藩邸で7日間の謹慎を命じられ
晴れて脱藩罪を免除されたようです
しかし龍馬は同年(1863年)出された
土佐への帰国命令を無視した事で、再び脱藩の身となりました・・
ちなみに、土佐藩邸の近くには、有名な建物も数多くあったんですね。
いくつかご紹介しますと・・
・池田屋(いけだや)
土佐藩邸から約300メートル北にあった旅籠屋(はたごや・旅館)です。
1864年に起きた池田屋事件の現場はココですよ~。
※池田屋事件について詳しくは木屋町界隈の史跡 その2をご覧下さい。
・酢屋(すや)
こちらも、土佐藩邸から約300メートルほど北にある建物で
この2階の部屋に龍馬は『才谷(さいたに)』の変名で泊り込んでいた事で
知られています。海援隊の屯所にもなっていました。
こちらは現在も、建物は残っています。
・近江屋(おうみや)
龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所で知られる近江屋は
土佐藩邸と、河原町通りを挟んで向かいにありました
当時、土佐藩邸は河原町通りに面するように
敷地が広がっていたそうですよ~。
※酢屋や近江屋については、坂本龍馬ゆかりの地巡りをご覧下さい。
さて!皆さんもご存知の通り
明治維新によって、江戸幕府は260年の歴史に幕を下ろします。
土佐藩邸は、1871年までこの地にあったそうで
その後、昭和に入り立誠小学校の校舎が建てられたというワケです
ちなみに藩邸内には
この地の産土神(うぶすながみ・その土地を守る神様)として
篤い信仰を受けていた稲荷神社があったそうで
一般の方でも自由に参拝出来る様に
開放されていました
土佐藩邸が取り壊される際
稲荷神社だけは、なんとかこの地に残しておこうという事となり
現在も土佐藩邸から程近い場所に土佐稲荷(とさいなり)として
社が構えられているんですよっ
という事で今回は、土佐藩邸跡をご紹介させていただきました。
場所はコチラ↓
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