2014-01-07 | |
テーマ:史跡 |
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吉村寅太郎寓居跡
今回は、幕末ゆかりの石碑を1つご紹介したいと思います。
それは・・・
吉村寅太郎寓居跡(よしむらとらたろうぐうきょあと)です!
吉村寅太郎は、土佐出身の尊王攘夷派の志士で
この石碑は
彼が土佐から京に来た際に、住んだとされる場所に建っています。
※尊王攘夷派とは『天皇を中心に、外国人を排除した国作り』を思想とするもので、当時、幕府と対立をしていました。
ちなみに、この石碑は
三条木屋町北部に建っています。
木屋町通り近くは、幕末の石碑が多数建っていて
藩邸跡や、暗殺があったとされる場所が数多くあるんですよ。
※すぐ近くには、同じ土佐藩出身の武市瑞山(たけちずいざん)が長期滞在していた『四国屋』と呼ばれる旅館があったようです。詳しくは武市瑞山先生寓居之跡の記事をご覧下さい。
さて、幕末の志士であり
土佐四天王の1人とも言われる
吉村寅太郎とはどんな人物だったのか?
簡単にご説明したいと思います。
※ちなみに、土佐四天王は中岡慎太郎・坂本龍馬・武市瑞山・吉村寅太郎の4人と言われています。
庄屋(しょうや・村役人の長)の息子として
生まれた吉村寅太郎は
1961年(25歳の頃)武市瑞山の結成した
『土佐勤王党(とさきんのうとう)』に加わりました。
※土佐勤王党は土佐の下士(かし)・郷士(ごうし)といった下級武士を中心に結成された攘夷(じょうい・『夷敵=外国人』を打ち破る)集団です。
この頃から、武市瑞山を師として仰いでいたと言われています。
そんな彼の状況を大きく変えたのが・・
土佐脱藩です。
なんと!龍馬よりも早く、土佐を脱藩しているんですね。
これは土佐勤王党に参加した翌年の1862年
武市の命を受けて
長州藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)と会った際
さらに九州に渡に渡り、平野国臣(ひらのくにおみ・元福岡藩士)と
話した際に『ある計画』を聞きます。
※平野国臣については竹林寺の記事をご覧下さい。
攘夷派であった島津久光(しまづひさみつ・薩摩藩)の上洛に合わせ
『諸国の志士達が倒幕の軍を上げる』というものでした!
実際のところ、島津は倒幕に加担する意思など無かったのですが
当時は、攘夷派とは『開国をしてしまった幕府を倒す事』という
二者択一的な思想が強く
島津が京に上るという事=幕府を倒す事だ!
と思ってしまう志士が多かったようです。
これを聞き、吉村寅太郎は脱藩し
この計画に参加する事を決意します。
しかし、皆さんもご存知かもしれませんが
この計画を知った島津久光は、これを阻止します。
それが1862年に起こった寺田屋騒動です。
※寺田屋騒動につては、大黒寺の記事をご覧下さい。
吉村寅太郎は、この事件のあおりを受けて
土佐に強制的に帰らされ、牢に入る事となったんですね。
・・しかし、その八ヵ月後。
罪を許されると再び上京。
この時(1863年)に居を構えたと言われているのが、現在、吉村寅太郎寓居跡の石碑が建つこの場所のようです!
冒頭でも言ったように、このすぐ近くには
師と仰ぐ武市瑞山の住まいもあったようですね。
その後、彼の人生に再び転機が訪れます。
同年、孝明天皇の攘夷祈願の為
大和御幸(やまとごこう・ぎょうこう)が計画され
これに便乗し、吉村寅太郎
倒幕の兵を大和で挙げる事を画策するんですね~。
※大和国(やまとのくに)は現在の奈良県になります。孝明天皇が攘夷祈願の為、この大和に参拝する計画が上がりました。
この時、公家・中山忠光(なかやまただみつ・明治天皇の叔父)を連れて
京を出た吉村寅太郎らは
『天誅組(てんちゅうぐみ)』を結成します。
※天誅組は、中山忠光を筆頭に組まれた、倒幕を目的とする尊王攘夷派の集団。
彼はここで幹部クラスとなり、組を指揮したと言われています。
しかし、これが彼の命を縮める原因となりました・・。
ここでどのような活動をしていたのかと言うと
まずは幕府出先機関である五条代官所を襲撃し
倒幕の旗を揚げを行いました。
しかし、『八月十八日の政変』を受け
後ろ盾が無くなると
逆賊扱いを受ける事となり、天誅組は孤立化してしまうんですね。
※八月十八日の政変については、桂小五郎ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
その後も進撃を続け、高取城(たかとりじょう)に攻め入りますが
結果的に敗走する事となり、天誅組は壊滅に・・。
吉村寅太郎は
吉野郡高見村鷲家口(よしのぐんたかみそんわしかぐち)にて
重症を追い、その場で自刃したとも伝わっています。
享年27歳、早すぎる死でした。
ちなみに、彼のお墓は
幕末の志士が集う、霊山護国神社にあるそうですよ。
という事で今回は、吉村寅太郎寓居跡をご紹介させていただきました。
場所はコチラ↓
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