2013-12-14 | |
テーマ:史跡 |
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明治維新 伏見の戦跡
今回も、幕末の石碑を1つご紹介したいと思いますっ。
それは・・・
明治維新 伏見の戦跡です
こちらの石碑は京都市伏見区(南部)にある
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)の境内に建っています
※御香宮神社に関しては御香宮神社 その2の記事をご覧下さい。
1868年、鳥羽・伏見にて
旧幕府軍(徳川幕府) VS 朝廷軍(薩摩藩士を中心とした官軍)による
『鳥羽・伏見の戦い』が勃発しました。
この『明治維新 伏見の戦跡』の建つ御香宮神社は
朝廷軍である薩摩藩士たちの本陣となった場所なんですね。
※こちらの石碑は『明治』に年号が改まってから100年を記念して建てられたものです。碑文は、昭和を代表する政治家で、内閣総理大臣だった佐藤栄作の書によるものだそうですよ。
時は幕末。
鳥羽・伏見の戦いはどのようにして起こったのかと言いますと
二条城にて徳川幕府15代将軍・慶喜(よしのぶ)が
大政奉還(たいせいほうかん)を行いました。
※大政奉還については二条城 その2の記事をご覧下さい。
しかし、明治天皇が幼かった事や
朝廷は慶喜の言うがままだった事から
その後も、徳川家は潰れる事無く
以後も政治(貿易や財政)を取り仕切る事となりました。
・・・これでは何も変わらない!という事で
『王政復古(おうせいふっこのだいごうれい)』を出し
徳川の財産や権威を奪おうとしたのです
※このあたりの詳しいお話は、二条城 その1の記事をご覧下さい。
大阪城(大坂城)に待機していた慶喜はこれに激怒
旧幕府軍は、反撃の為に
大阪から北上し、上洛を目指して進軍します。
この時にさしかかったのが『鳥羽・伏見エリア』でした。
ここで薩摩藩士らに足止めされ
そのまま戦が勃発する事となったんですね。
この時、旧幕府軍は二手に分かれて進軍していていたのですが
その両方で戦が始まったんですね。
一つは鳥羽にある小枝橋(さえだばし・こえだばし)
もう一つは、この伏見の御香宮神社を中心とするエリアで起こりました。
この伏見の戦いでは
薩摩藩士(500名)が御香宮神に
旧幕府軍(1500名)は伏見奉行所に、それぞれ本陣を構えました。
※旧幕府軍の中には、会津藩士や桑名藩士、新撰組らがいたそうです。
まず、薩摩藩士たちがその立地条件を活かして
距離にして約200メートル南にある伏見奉行所に向けて
砲撃を開始したんですね!!
つまり、御香宮神社は
伏見奉行所が見下ろせる位置にあったのです
しかし、これは偶然ではなく・・
完全な薩摩藩士の作戦勝ちだったんですね
実は・・・
御香宮神社に陣を構えるのは旧幕府軍の予定だったのですが
なんと、薩摩藩士の吉井孝助が横取りをしたのです!
当初、御香宮神社には『徳川氏陣営』と書かれた木札が
門に掲げられていたそうです。
しかし、これを見た御香宮神社の宮司が
尊王派であった事から
立地条件の良い御香宮神社を旧幕府軍に取られると
やっかいな事になると危惧し
朝廷にすぐに知らせたそうなんですね。
これを知った薩摩藩が
この重要性に気付き、すぐさま藩士の吉井孝助を派遣し
陣を構えさせ、旧幕府軍の介入を防いだというワケです
こうして、御香宮神社をおさえた薩摩藩士は
伏見奉行所を狙い打ちして、見事に大ダメージを与える事が出来ました。
※一方、同じ頃、鳥羽の小枝橋でも同様に戦いが起こっていました。
こうして1868年1月3日
『鳥羽・伏見の戦い』が始まったというワケです。
有名なお話として、この戦いの中で
朝廷軍(薩摩藩士を中心とした軍)は
『錦の御旗(天皇の軍隊である事の証明)』を掲げて戦ったそうです。
旧幕府軍は錦の御旗を見た瞬間
・・・戦意喪失する者が続出だったと言われています
この旗を掲げるという事は
『天皇の軍隊(官軍)』である事を意味しているんですね
しかし旧幕府軍は
天皇に歯向かうつもりで鳥羽伏見の戦いをしていたのではないのです。
あくまでも薩摩藩士ら新政府に対して
怒りをむき出しにしていたワケですから
しかし天皇に刃を向けたのだと感じた旧幕府軍には
かなりの動揺が走ったでしょう。
7日には、慶喜は密かに大阪城を脱し、軍艦・開陽丸で江戸へ退却しました
結果的に
旧幕府方1万5000人に対して、5000人の兵力で朝廷軍が勝利!
これがきっかけで、倒幕は実現され
江戸城の無血開城へと繋がるんですね。
という事で、今回は明治維新 伏見の戦跡をご紹介させていただきました
場所はコチラ↓
Tweet1 ■大変ためになりました。
わかりやすく、昨日、伏見探索(御香宮と伏見奉行所跡)に行く時に読ませていただきました。
ありがとうございました。
ブログは今していませんが、インスタの方で京都の史跡巡りを時々投稿しております。
てんすけさん 2020-11-19 12:37:15
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