2013-10-24 | |
テーマ:史跡 |
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北野大茶湯之址
今回は、日本最大級の『茶会』と言われる・・・
北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)をご紹介したいと思います
北野天満宮の境内にて行われた、この茶会は
関白太政大臣となった豊臣秀吉が主催したもので
茶席の数は1500!招待客だけでも5000人!にものぼった大規模なものでした
※農民出身の秀吉らしく、北野大茶湯は、身分の違い、貧富の差に関係なく誰でも参加OKだったと言われています。
現在は北野大茶湯之址(きたのおおちゃのゆのあと)と書かれた石碑が建っています。
そんな大規模な茶会が1587年10月1日に
北野天満宮の境内で行われたワケですが
秀吉はどうしてこんな事をしたのか、簡単に言うと・・・
「どうじゃっ!ワシが、この世の中で一番力持ってるから、こんな立派な茶会が出来るんだぞぉ~。」
って事が言いたかったみたいですね
※この茶会は、九州平定(島津家を降伏させ九州を統一)と聚楽第(じらくだい・政庁を兼ねた邸宅)の完成を記念して行われたと言われています。
そんな全国統一を目前にした秀吉の茶会には
諸大名や公家、この他にも京都や堺(大阪)からの商人・茶人が一同に介したそうです。
そんな北野大茶湯を仕切ったのは秀吉だけではありません
当時、豊臣家の茶頭(さどう・茶事を取り仕切るトップ)として従事していた
千利休(せんのりきゅう)です!
彼のサポートもあり、無事に開催にいたったというワケです。
※千利休については、千利休ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
この他にも、豊臣家に従事していた
茶人『津田宗及(つだそうぎゅう)』『今井宗久(いまいそうきゅう)』などが
中心となり北野大茶湯は行われたようです。
当日の様子はどうだったのかと言うと、まずは
彼ら3茶人に加え、秀吉も亭主となり
参加者に茶を点てたと言われています
※亭主とは、客に対して茶を点じ接待をする人の事です
その後、茶席が次々と作られ、あちらこちらの席で茶が点てられました。
境内にびっしりと二畳ほどの茶席が敷き詰められていたそうですよ
この他にも、名物茶器や茶碗の数々が展示されていたと言われています。
石碑から徒歩すぐの場所にある太閤井戸(たいこういど)です。太閤とは秀吉の事ですよ~。この井戸水でお茶を点てたそうです。
そして、この茶会に団子を献上し、秀吉に絶賛されたのが
長五郎餅(ちょうごろうもち)です。
河内屋長五郎(かわちやちょうごろう)によって作られた
餡子を薄い餅の皮で包んだお餅で
秀吉に餅を献上すると、とても気に入られ
名前を『長五郎餅』と名乗るように言われたと伝わります。
※現在も、毎月25日の縁日には、北野天満宮境内でお店を出されているので、気になった方は足を運んでみてはいかがでしょうか?
ちなみに秀吉の茶室と言えば・・・
ピカピカに光った『黄金の茶室』が有名ですよね
金箔の貼られた茶室で、しかも組み立て式っ!
つまり運搬可能な、広さ三畳の茶室で
この北野大茶湯が行われる以前にも
黄金の茶室を、御所に運び込み
そこで正親町天皇(おおぎまちてんのう・第106代天皇)に
そのお手前を披露したそうです。
※正親町天皇に茶を点てたのは1585年の事で、関白に任命された御礼に茶を献上したようです。
それにしても、秀吉って・・・・
盛大な宴というのが好きな人!!
ちなみに、この11年後に秀吉は『醍醐の花見』を開催する事となるんですね
醍醐の花見は、息子や妻など近親者から、諸大名など
約1300人を引き連れて行った花見です。
※醍醐寺について詳しくは、醍醐寺 その2の記事をご覧ください。
さて、そんな北野大茶湯は10日間、開催される予定でしたが
肥後国(ひごのくに・現在の熊本)にて一揆が起こった事から
わずか1日でこの茶会は切り上げられたという事です
そんな歴史に残る大規模な茶会が行われた
北野大茶湯之址(北野天満宮)の場所はコチラ↓
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