2013-12-20 | |
テーマ:史跡 |
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高松殿址
今回ご紹介する史跡は・・・
高松殿址(たかまつでんあと)です。
平安時代、この地には
天皇の住まいがあったとされています
それが・・・・
高松殿(たかまつでん)でした!
※場所は、京都御所の南西・約1キロの位置になります。
この他、歴史的な戦いであった
『保元の乱(ほうげんのらん・1156年)』では
後白河天皇のもとに平清盛(たいらのきよもり)や
源義朝(みなもとのよしとも・頼朝の父)らが集結し
ここから崇徳上皇(すとくじょうこう)のいる白河北殿へ
攻め込む事となったんですね~
さて、そもそも高松殿が出来たきっかけというのは・・
平安時代中期、源高明(みなもとのたかあきら・醍醐天皇の息子)が
7歳の時に、源(みなもと)の姓を賜ると同時に
造営されたと言われています
※この時、鎮守社として天照大神(あまてらすおおみかみ)を勧請しました。これが現在、この地に建っている高松神明神社です。
その後、源高明の娘である明子(あきこ)が
ここに住んでいたようで
彼女は、その後、藤原道長(ふじわらのみちなが)の側室になったんですよ~
※ちなみに10円玉で有名な平等院鳳凰堂は、藤原道長の別荘・宇治殿がもとになったものです。
その後、高松殿は
三条天皇の皇子『小一条院(こいちじょういん)』の御所となったそうです
このほか、白河上皇や鳥羽上皇の
院御所(いんごしょ・院政を行った場所)になりました。
※上皇とは元天皇という意味です。院政とは、天皇を退位し、上皇として後ろで天皇に指示を出す事です。
そして、こうして代々
天皇や上皇が移り住んだ高松殿は
その後、後白河天皇の内裏となりました。
※内裏(だいり)とは、皇居や官庁となる場所を指す言葉です
そして『保元の乱』では
ここにいた後白河天皇のもとに
平清盛や源義朝らが集結し
ここから崇徳上皇のいる白河北殿へ
攻め込む事となったんですね
ちなみに・・・
『保元の乱』ってどんな戦いだったの?
と、いいますと
一言でいえば
権力争いがきっかけで起きた戦いで
崇徳上皇と、彼の弟である後白河天皇が争いました
崇徳、後白河の2人はそれぞれ
源氏や平氏の武士を駆り出す事となります。
後白河天皇はこの時に
平清盛や源義朝らを
高松殿に集めたんですね~。
ちなみに結果は?と言いますと
後白河天皇の勝利っ!
後白河天皇は、崇徳上皇を島流しにしちゃいます
ここで、武士たち(平清盛や源義朝)は
何を感じたのかと言うと・・
それまで番犬のような扱いだったんですが
「俺たち、武士の勝敗で政(まつりごと)が動いたんだ・・スゲェ!」
「なんだ武士の力で世の中動かせんじゃん!俺らで天下取れるよ!」
と思ったそうですよ
この戦いがきっかけで
その後、武士の力が大きくなり
後の武家政権が誕生する事となるんですね。
という事で今回は『高松殿址』をご紹介させていただきました。
場所はコチラ↓
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1 ■2級受験勉強開始
こんばんは。検定から2週間が過ぎました。昨日から来年度の検定に向けて、勉強を開始しました。過去2回分の問題を解いてみましたが、74点と、76点でした。これからもよろしくお願いします。
kazさん 2013-12-22 00:10:18
2 ■Re:2級受験勉強開始
>kazさん
もう、来年の試験に向けて勉強ですか('-^*)/はやいっ!
しかも、すでに合格点をたたき出しているんですから、その調子でいけば絶対合格ですよ~ヾ( ̄0 ̄;ノ
京子 2013-12-22 01:12:47
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