今回は、幕末ゆかりの石碑を1つご紹介したいと思います。

それは・・・


本間精一郎遭難之地

本間精一郎遭難之地(ほんませいいちろうそうなんのち)です


これは、土佐藩邸や長州藩邸からも程近い場所に建つ石碑で

1862年、この場所で彼は

幕末四大人斬りで有名な岡田以蔵(おかだいぞう)ら数名によって

暗殺されたと言われています。

まず、本間精一郎とは一体、どんな人物だったのか?

簡単にご説明したいと思います。


彼は幕末の勤皇志士であり

尊王攘夷派(そんのうじょういは)だった人物です

※尊王攘夷派とは『天皇を中心に、外国人を排除した国作り』を思想とするもので、当時、幕府と対立をしていました。


本間精一郎は越後国(えちごのくに・現在の新潟県)の商家出身で

早くから江戸に出て、勘定奉行・川路聖謨(かわじ としあきら)に仕えたそうです。

※家はかなり裕福な家系だったようですね。実家では代々、酢や醤油の醸造業を行っていたそうで、彼はそこの長男だったみたいですよ。


その後

清河八郎(きよかわはちろう・新撰組結成のきっかけになった浪士組を結成した中心人物)

と出会った事や『安政の大獄(あんせいのたいごく)』が行われた事をきっかけに

京にやって来て、尊王攘夷運動に身を投じたと言われています。


ちなみに、清河八郎は尊王攘夷派として知られる

有名な人物なんですよっ

※安政の大獄については、金福寺の記事をご覧下さい。清河八郎や浪士組については、新撰組ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。


さて、本間精一郎はどんな人間だったのかと言うと

文武両道で、おまけに口も達者っ!だったそうです。

しかし、その反面、他人を軽く見てしまうような一面もあったようです。

そんな本間精一郎は、この京の地で

公卿らと尊王攘夷論を掲げ、倒幕を訴え

尊王攘夷派の中でも、かなり目立った存在になりました

※一説には、急進派(過激派)として活躍していたとも言われています。


当時、京都の尊王攘夷派といえば

長州藩士や土佐藩士が中心です

その点、本間精一郎はどの藩にも属していなかった為

自由に行動出来たようですね


しかし、彼の出すぎた行動は

同じ尊王攘夷派たちの反感を買う事となり

とうとう暗殺の計画が持ち上がったと言われています。

※この他にも、『貧しい出の浪士たちと反りが合わなかった。』『幕府に通じているのでは?』など暗殺にいたる理由や説は様々あるようです。


ちなみに首謀者は土佐藩の武市瑞山(たけちずいざん・半平太)だと

一説では言われているみたいですよ。


1862年、こうして本間精一郎暗殺計画が実行される事となりました。

この日、土佐や長州の仲間から

たらふく酒を飲まされた本間精一郎は

先斗町(ぽんとちょう)から、木屋町通に向けて

千鳥足でふらふらと歩いていたと思われます

・・ちょうどその時でした。


彼の前に、幕末四大人斬りで知られる岡田以蔵や田中新兵衛(たなかしんべえ)

以下、数名が立ちはだかります!


危険を感じた本間精一郎は

狭い路地へ逃げ込もうとしますが

向こうからも追っ手が・・・そうです、挟み撃ちに合うんですね。


逃げ場を失った本間精一郎はその場で斬殺。

享年、29歳でした。


死体は近くを流れる高瀬川に捨てられ

首は四条河原に晒されたそうですよ。


ちなみに現場に建つ家屋の一部には

『岡田以蔵の刀痕』と思われるような傷跡も残されているそうです。


事実かどうかは、ちょっと分かりませんが

これを見ると、生々しい現場の様子を

思わずイメージしちゃいますね。


ちなみに、木屋町や先斗町は、バーなど、お酒の飲めるお店が多く

観光客も多数訪れる人気スポットの1つです


しかし一昔前は、本間精一郎以外にも

多くの血が、この場所で流れたと言われています。


そんな本間精一郎遭難之地の場所はコチラ↓


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