今回ご紹介する史跡は・・・

高松殿址

高松殿址(たかまつでんあと)です。

平安時代、この地には

天皇の住まいがあったとされています


それが・・・・

高松殿(たかまつでん)でした!

※場所は、京都御所の南西・約1キロの位置になります。


この他、歴史的な戦いであった

『保元の乱(ほうげんのらん・1156年)』では

後白河天皇のもとに平清盛(たいらのきよもり)や

源義朝(みなもとのよしとも・頼朝の父)らが集結し

ここから崇徳上皇(すとくじょうこう)のいる白河北殿へ

攻め込む事となったんですね~


さて、そもそも高松殿が出来たきっかけというのは・・

平安時代中期、源高明(みなもとのたかあきら・醍醐天皇の息子)が

7歳の時に、源(みなもと)の姓を賜ると同時に

造営されたと言われています

※この時、鎮守社として天照大神(あまてらすおおみかみ)を勧請しました。これが現在、この地に建っている高松神明神社です。


その後、源高明の娘である明子(あきこ)が

ここに住んでいたようで

彼女は、その後、藤原道長(ふじわらのみちなが)の側室になったんですよ~

※ちなみに10円玉で有名な平等院鳳凰堂は、藤原道長の別荘・宇治殿がもとになったものです。


その後、高松殿は

三条天皇の皇子『小一条院(こいちじょういん)』の御所となったそうです


このほか、白河上皇や鳥羽上皇の

院御所(いんごしょ・院政を行った場所)になりました。

※上皇とは元天皇という意味です。院政とは、天皇を退位し、上皇として後ろで天皇に指示を出す事です。


そして、こうして代々

天皇や上皇が移り住んだ高松殿は

その後、後白河天皇の内裏となりました。

※内裏(だいり)とは、皇居や官庁となる場所を指す言葉です


そして『保元の乱』では

ここにいた後白河天皇のもとに

平清盛や源義朝らが集結し

ここから崇徳上皇のいる白河北殿へ

攻め込む事となったんですね


ちなみに・・・

『保元の乱』ってどんな戦いだったの?

と、いいますと


一言でいえば

権力争いがきっかけで起きた戦いで

崇徳上皇と、彼の弟である後白河天皇が争いました


崇徳、後白河の2人はそれぞれ

源氏や平氏の武士を駆り出す事となります。


後白河天皇はこの時に

平清盛や源義朝らを

高松殿に集めたんですね~。


ちなみに結果は?と言いますと

後白河天皇の勝利っ!

後白河天皇は、崇徳上皇を島流しにしちゃいます


ここで、武士たち(平清盛や源義朝)は

何を感じたのかと言うと・・


それまで番犬のような扱いだったんですが

「俺たち、武士の勝敗で政(まつりごと)が動いたんだ・・スゲェ!」

「なんだ武士の力で世の中動かせんじゃん!俺らで天下取れるよ!」


と思ったそうですよ


この戦いがきっかけで

その後、武士の力が大きくなり

後の武家政権が誕生する事となるんですね。


という事で今回は『高松殿址』をご紹介させていただきました。

場所はコチラ↓


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