2010-08-02 | |
テーマ:お寺 |
圓光寺
こんにちは、京子です
紅葉のシーズンは詩仙堂とともに回る観光客も多く
始まりは、徳川家康による国内の学力アップの為に作られた学校でもある・・・
圓光寺(えんこうじ)です
(・∀・)では、本日もいってみましょう。
さて、こちらの圓光寺は冒頭でも言ったとおり
お寺でもありながら、なんと学校だったんです。
場所は現在ある、一乗寺ではなく
元は京都の伏見にあったんですね
さて、家康は学校を作る為に呼び寄せた人物というのが
三要元佶(さんようげんきつ)というお坊さん
この人は超エリートだったみたいで、関東における事実上の最高学府であった「足利学校」の校長先生も経験したほどの人物。儒学、易学(占い)、兵学、医学、の他に、構内で薬草園を育ててたっていうんですからなんて勉強熱心な学校
そして、あのフランシスコザビエルも
「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学…。」
と言って海外でもその名前が知られていました。
そんな元佶により、圓光寺は学問所のあるお寺としてスタートしたんです。
圓光寺入ると、まず見えて来たのが本堂
こちらは本堂の玄関にある襖絵。
黄金に輝いていてキラキラとっても綺麗です~っ
そして、本堂はとても大きく
想像以上でびっくり
そしてこの本堂から眺められるお庭というのが・・・
こちらです!
十牛の庭(じゅうぎゅうのにわ)
どーですか!入り口からは想像が出来ないほど
境内はとっても広く、紅葉の季節になると一面赤に染まるようです
そしてその素敵なお庭で
これを発見!!
水琴窟(すいきんくつ)
読んで字の如く。
琴のような音を発する装置と言っていいでしょうか?
日本庭園の装飾の一つで、この下には大きな空洞があり、そこに水滴を落下させ、その水滴が
ぽちゃん
と落ちる音が空洞に反響しキ~ン、キ~ン
と、音が鳴る仕組みです
こちらの水琴窟には、空洞から音が大きく外へ聞こえるように竹筒が射してあり、そこから琴に似た涼しげな音色が聞こえてきました
風流ですね~っ。
冒頭で説明した通り
圓光寺にはもちろん、学校の名残が残った資料も展示されています。
圓光寺の資料室といえる瑞雲閣(ずいうんかく)の中に・・・ありました
こちらは木活字(もっかつじ)
当時の印刷は、文字(活字)ひとつひとつがハンコになっていて
それを並び合わせて、紙などに印字していたんですね。
全部でなんと、5万個もあるんだそうです(汗)
江戸時代中期の画家で京都出身の渡辺始興によって書かれた「寿老人図」
先ほどの活木字と同じく重要文化財です。
蟠龍窟(ばんりゅうくつ)といわれる座禅をする為の部屋。
以前は尼僧の専門道場だったともこま札に書かれていましたね♪
この圓光寺から数百メートルと近い「金福寺」で修行をした
一人の尼さんがいらっしゃいました。
その人の名は村山たか女(むらやまたかじょ)。
こちらは村山たか女のお墓。
この人って誰なのと言いますと
井伊直弼(いいなおすけ)の「恋人」であり「密偵」とも言われたりしている人だったんですね。
滋賀の近江に生まれた彼女は
18歳の時に当時の藩主で、直弼の兄でもある井伊直亮(いいなおあき)の侍女となります。
20歳の時に京都、祇園で芸妓となり子供を儲けますが、実家に帰る事に。
その時に彦根にいた井伊直弼と出会ったそうです。
その後、大老となった井伊直弼は江戸へ。
2人は別れたと思われました。
しかし、安政の大獄では
京都にいる尊皇攘夷派の情報を
江戸にいる井伊直弼の密偵となり
安政の大獄に大きく加担したと言われているんです。
他には家康のお墓もあります。
家康の墓の隣には江戸時代前期の儒学者である鵜飼石斎のお墓。
ところで、井伊直弼というと皆さんどんなイメージをお持ちでしょうか??
人気のある維新志士とは対照的に描かれていますし
外圧に屈して、天皇の許しが無いまま違勅調印し結ばされた
「日米修好通商条約」(不平等条約)をしちゃった人というのが一般的ですよね。
・・・でも、井伊直弼が
どうしてこんな条約を結んじゃったのかというと
結局、幕府は攘夷(外国人を追い出す事)は出来ないと思っていたし
日本よりも強いと言われていた清がイギリスに負けちゃった
アヘン戦争なんかを見ちゃってますし
それはもう仕方が無かったんでしょうね・・・
でもでも、そんな不平等な条約を結ばされ
一気に反発をしたのが、尊皇攘夷派と言われる
「天皇を中心に外国人を排除した国作り」を思想としている人たちなんですね。
しかーし
ざわざわしている尊皇攘夷派を弾圧する為に
井伊直弼の指揮の元、行ったのが「安政の大獄」なんです。
水戸浪士や薩摩藩士など総勢100名以上!
吉田松陰がこれによって打ち首となりました。
しかし、松蔭の死がなければ彼の塾生であった高杉晋作が一人で挙兵し倒幕へと動く事は無かったかもしれないですね。
そう、考えると「安政の大獄」の後、尊王攘夷派は倒幕を意識し始めたのでしょう。
このカワイイ、お昼寝中の小坊主の石造は座禅部屋の蟠龍窟の前にありました~
広い境内には梵鐘ももちろんありました
さて、この「安政の大獄」の報復行為とも言えるのが
「桜田門外の変」ですよね。
桜田門外の変は今でいうと、
国会議事堂の前で総理大臣が白昼堂々殺されるって
いうくらい壮絶なものだったんではないでしょうか
「桜田門外の変」というのは
水戸過激浪士17名、薩摩藩士1名による井伊直弼暗殺事件ですね。
みなさんもご存知の通り、そこで彼の人生は終焉を迎えます。
それから2年後・・・
恋人であり井伊直弼の密偵でもあった、たか女も
尊王攘夷派の武士に捕らえられ
三条河原に3日3晩晒されました。
結果的に女性ということで死罪を免るのです。
そして、金福寺に尼さんとして出家するんですね~。
今日はそんな悲しい2人のストーリーを
ご紹介しちゃいました。
井伊直弼は未来の日本を守る為に
汚名を被るのも承知で不平等条約を受け入れたのではないかなって思うんですよね
腕も確かで、頭のデキも相当だったと言われていています。
彼は間違いなく
今の日本の礎になった一人であります
そんな圓光寺の場所はコチラ↓
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