2014-07-07 | |
テーマ:史跡 |
関連:八木邸 / 池田屋騒動之址 / 此付近 新選組最期の洛中屋敷跡 / 勧進橋 / |
近藤勇遭難の地
今回ご紹介するのは
伏見区の墨染(すみぞめ)にある老舗料亭
『清和荘(せいわそう)』の前に建てられている
近藤勇遭難の地(こんどういさみそうなんのち)です!
近藤勇というのは
新選組(しんせんぐみ)の局長の事ですよね。
ここで新選組について簡単にご説明しますと
幕末の京都で結成された
日本の歴史上最大で最強の剣客集団の事で
京都の治安維持を目的に組織された集団なんです
※新選組について詳しくは、新選組ゆかりの地巡りの記事をご覧ください。
新選組と言えば、人斬り集団というイメージが
あったかもしれませんけれど
今でいう警察みたいなものなんですよ。
※新選組の字は新撰組と書かれているものもあり、文書でも、どちらも使用例があります。当サイトでは以下、新選組で統一しますね。
そんな新選組の局長である近藤勇が
二条城で京都町奉行所若年寄だった
永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)との軍議を終えて
伏見奉行所まで帰る際
ある者らに狙撃されてしまいます
※1867年(慶応3年)の12月18日夕刻だったと言われています。ちなみにこの頃は新選組は、幻の屯所と言われる不動堂屯所から伏見奉行所に移っていました。不動堂屯所について詳しくは、不動堂屯所跡の記事をご覧ください。二条城について詳しくは、二条城 その1の記事をご覧ください。
そのある者らとは
御陵衛士(ごりょうえじ)の残党である
・阿部十郎(あべじゅうろう)
・篠原泰之進(しのはらたいのしん)
・加納道之助(かのうみちのすけ)
・富山弥兵衛(とやまやへえ)
・佐原太郎(篠崎新八朗(しのざきしんぱちろう))
・内海次郎(うつみじろう)
です。
彼らは御陵衛士という
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)をはじめとする
かつて新選組だった人達が作った組織に所属していたんですね。
※高台寺の塔頭である月真院に屯所を構えた事から高台寺党と呼ばれたりもします。
しかしその伊東が1867年11月に
油小路(あぶらのこうじ)で新選組に暗殺されてしまいます
この事が原因で近藤が襲われたんですけれど
なぜ伊東が殺される事になったのかと言いますと
新選組にはある鉄の掟があったんですね。
その掟とは
・第一士道をそむくこと
・第二局を脱すること
・第三かってに金策をいたすこと
・第四かってに訴訟をとりあつかうこと
の事で、これらの掟に背くと切腹しなければいけませんでした
しかし、伊東は鉄の掟があったのにも関わらず
無事に新選組を抜ける事に成功していたんですよ
でも、やっぱり無事に隊を抜けられるわけもなく
結局は暗殺されてしまうんですね。
※御陵衛士の結成や伊東甲子太郎暗殺について詳しくは、月真院の記事をご覧ください。
その約1ヶ月後に殺された伊東の復讐を果たそうと
御陵衛士の残党が近藤を狙撃したというわけなんです。
ちなみに近藤が実際に
狙撃された場所については諸説あるようですけれど
石碑のあるこの場所で
狙撃されたというわけではなさそうです
※一応、伏見街道(本町通)と墨染通りの交差点付近とは言われています。
石碑にも『この付近で』といった表現がなされ
詳しい場所はわかっていないみたいなんですね~。
それでもいくつか諸説がありますので
ご紹介したいと思います♪
1つは伏見街道。
こちらは実際に狙撃に参加した
阿部十郎の証言内容である
墨染から約1km南の伏見街道丹波橋筋付近
という事から伏見街道ではないかと推察されています。
そしてもう1つは竹田街道。
竹田街道だとこの石碑の場所からすぐ近くなんですよ
さらに阿部十郎らは
藤森神社の南北二手に分かれて
近藤を挟み撃ちにしようと
墨染の民家の2階に身を潜めていたと言われています。
この事から藤森神社の近くだという説があるんです。
実際はどこだったのかわかりませんけれど
近藤勇になった気持ちで
二条城からの帰路をトレースすると面白いかも知れませんね。
そしてこの時、近藤が凄かったのは
右肩に狙撃されたにも関わらず
落馬せずに伏見奉行所まで
逃げ延びたというんですよ!!
落馬していたら
間違い無く、その場で殺されていたんですね・・・
なぜなら近藤が落馬したら
御陵衛士の残党の4人で切り殺す予定だったんです
近藤も落ちたら終わりだと思って
何が何でもたずなを離さなかったのかも知れませんね。
ちなみに近藤は翌年の
1月3日から始る鳥羽・伏見の戦いには
この時の怪我のために参加できず
大坂で療養生活を送っていたそうです。
※鳥羽・伏見の戦いについて詳しくは、岩倉具視幽棲旧宅の記事をご覧ください。
そんな近藤勇遭難の地の石碑が建つ場所はコチラ↓
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