メモ2015-11-08
テーマ:その他
関連:京都の国宝3大唐門 / 京都の禅面 / 

龍華の三具足

今回ご紹介するのは

龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)です!


龍華の三具足とは、日蓮宗(法華宗)の開祖

日蓮(にちれん)の孫弟子である

通称『肥後阿闍梨(ひごあじゃり』といわれた

日像(にちぞう)を開山とする

3つのお寺を言うんですね


3つのお寺とは
・妙覚寺(みょうかくじ)
妙顕寺(みょうけんじ)
立本寺(りゅうほんじ)
の事なんですよ~♪


日像は鎌倉時代のお坊さんで

7歳の時に日朗(にちろう)に入門し

修行を始めたといわれています


その後、日蓮の臨終の際に遺命(いめい)を受け

1293年(永仁元年)、25歳の時に

京都での布教(京都弘通(きょうとぐづう))を

開始したんですね


日蓮の時までの日蓮宗は

地方教団に過ぎなかったそうですけれど

日像の京都での辻説法(つじせっぽう)によって

多くの信者を得て全国に日蓮の教えが

広がっていきました


その後、日蓮宗は多くの流派を形成し
洛中に本山だけでも21ヵ寺を数え
京都は昼夜『南無妙法蓮華経』が唱えられる
『題目の巷(だいもくのちまた)』と
称されるまでになるんですね~。


それではご紹介しましょう


■妙覚寺(みょうかくじ)


妙覚寺(みょうかくじ)


場所:京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135


妙覚寺は、北龍華具足山と号す

龍華院日実(にちじつ)が妙顕寺から分立して

四条大宮に建てたお寺なんですね


豪商であった
小野妙覚(おのみょうかく)という
人物の外護(げご)を得て
1378年に四条大宮にあった妙覚の別荘を
お寺としたのが始まりなんだそうです。


1582年(天正10年)に起こった

本能寺の変(ほんのうじのへん)では

妙覚寺が織田信長(おだのぶなが)の嫡男である

信忠(のぶただ)の宿舎であった事から

明智光秀(あけちみつひで)に攻められ

この時、焼失したとされています


その後、いつ頃再建したのかはわかりませんけれど

豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって

現在地へと移転し現在に至ります。


境内には室町時代の絵師

狩野元信(かのうもとのぶ)をはじめとする

狩野家のお墓がある事で知られているんですよ


妙顕寺(みょうけんじ)


江戸時代の天保十年頃に再建された本堂


場所:京都市上京区押小路小川西入


妙顕寺は、具足山龍華院と号す

京都で一番最初に建てられた日蓮宗のお寺で

日蓮宗四大本山の1つです。


鎌倉時代の1321年(元亨元年)に
後醍醐天皇(ごだいごてんのう:第96代天皇)
によって寺領を賜り(たまわり)
勅願寺となったんですね♪


その後、四条大宮に移転し

そこを本拠地として布教活動を行ったんですけれど

度々他宗の寺院から反発を買って

破却(はきゃく)されました

※日像一門の事を四条門流と呼ぶそうです。


以降、再建と破却を繰り返し

1584年(天正12年)秀吉によって

現在地に移転させられ、現在に至ります。


妙顕寺の塔頭である

泉妙院(せんみょういん)には

尾形光琳(おがたこうりん)や

尾形乾山(おがたけんざん)の

お墓がある事で知られています


立本寺(りゅうほんじ)


立本寺(りゅうほんじ)


場所:京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町


立本寺は、西龍華具足山と号し

もともとは妙顕寺に始まる寺院なんですね♪


1413年(応永20年)に
妙顕寺が破却された後、1423年(応永30年)
日実らが再建した本応寺と
月明(げつめい)が再建した妙本寺に分立し
本応寺が後に立本寺と改称をしたんですね。


その後、寺地を転々とし

1708年(宝永5年)の宝永の大火

(ほうえいのたいか)によって焼失

後に現在の場所に移ったそうです


境内には戦国武将の

石田三成(いしだみつなり)の家臣

島左近(しまさこん)のお墓や

京の豪商、灰屋紹益(はいやじょうえき)の

お墓がある事でも知られています


という事で今回は

京都の龍華の三具足と呼ばれる

日蓮宗のお寺をご紹介しました~♪


詳しい場所はコチラ↓



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