今回ご紹介するのは
龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)です!
龍華の三具足とは、日蓮宗(法華宗)の開祖
日蓮(にちれん)の孫弟子である
通称『肥後阿闍梨(ひごあじゃり』といわれた
日像(にちぞう)を開山とする
3つのお寺を言うんですね
3つのお寺とは
・妙覚寺(みょうかくじ)
・妙顕寺(みょうけんじ)
・立本寺(りゅうほんじ)
の事なんですよ~♪
日像は鎌倉時代のお坊さんで
7歳の時に日朗(にちろう)に入門し
修行を始めたといわれています
その後、日蓮の臨終の際に遺命(いめい)を受け
1293年(永仁元年)、25歳の時に
京都での布教(京都弘通(きょうとぐづう))を
開始したんですね
日蓮の時までの日蓮宗は
地方教団に過ぎなかったそうですけれど
日像の京都での辻説法(つじせっぽう)によって
多くの信者を得て全国に日蓮の教えが
広がっていきました
その後、日蓮宗は多くの流派を形成し
洛中に本山だけでも21ヵ寺を数え
京都は昼夜『南無妙法蓮華経』が唱えられる
『題目の巷(だいもくのちまた)』と
称されるまでになるんですね~。
それではご紹介しましょう
■妙覚寺(みょうかくじ)
場所:京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
妙覚寺は、北龍華具足山と号す
龍華院日実(にちじつ)が妙顕寺から分立して
四条大宮に建てたお寺なんですね
豪商であった
小野妙覚(おのみょうかく)という
人物の外護(げご)を得て
1378年に四条大宮にあった妙覚の別荘を
お寺としたのが始まりなんだそうです。
1582年(天正10年)に起こった
本能寺の変(ほんのうじのへん)では
妙覚寺が織田信長(おだのぶなが)の嫡男である
信忠(のぶただ)の宿舎であった事から
明智光秀(あけちみつひで)に攻められ
この時、焼失したとされています
その後、いつ頃再建したのかはわかりませんけれど
豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって
現在地へと移転し現在に至ります。
境内には室町時代の絵師
狩野元信(かのうもとのぶ)をはじめとする
狩野家のお墓がある事で知られているんですよ
■妙顕寺(みょうけんじ)
場所:京都市上京区押小路小川西入
妙顕寺は、具足山龍華院と号す
京都で一番最初に建てられた日蓮宗のお寺で
日蓮宗四大本山の1つです。
鎌倉時代の1321年(元亨元年)に
後醍醐天皇(ごだいごてんのう:第96代天皇)
によって寺領を賜り(たまわり)
勅願寺となったんですね♪
その後、四条大宮に移転し
そこを本拠地として布教活動を行ったんですけれど
度々他宗の寺院から反発を買って
破却(はきゃく)されました
※日像一門の事を四条門流と呼ぶそうです。
以降、再建と破却を繰り返し
1584年(天正12年)秀吉によって
現在地に移転させられ、現在に至ります。
妙顕寺の塔頭である
泉妙院(せんみょういん)には
尾形光琳(おがたこうりん)や
尾形乾山(おがたけんざん)の
お墓がある事で知られています
■立本寺(りゅうほんじ)
場所:京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町
立本寺は、西龍華具足山と号し
もともとは妙顕寺に始まる寺院なんですね♪
1413年(応永20年)に
妙顕寺が破却された後、1423年(応永30年)
日実らが再建した本応寺と
月明(げつめい)が再建した妙本寺に分立し
本応寺が後に立本寺と改称をしたんですね。
その後、寺地を転々とし
1708年(宝永5年)の宝永の大火
(ほうえいのたいか)によって焼失
後に現在の場所に移ったそうです
境内には戦国武将の
石田三成(いしだみつなり)の家臣
島左近(しまさこん)のお墓や
京の豪商、灰屋紹益(はいやじょうえき)の
お墓がある事でも知られています
という事で今回は
京都の龍華の三具足と呼ばれる
日蓮宗のお寺をご紹介しました~♪
詳しい場所はコチラ↓