メモ2013-06-18
テーマ:史跡

岩倉具視幽棲旧宅

今回ご紹介するのは、幕末の公家であり

維新後、政治家として活躍した

岩倉具視(いわくらともみ)の邸宅・・・

岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)です!!


こちらは、京都市左京区の岩倉と呼ばれるエリアに建てられています

※ちなみに岩倉とは『いわくら(神様の宿る巨大な岩)』があった事から付いた地名です。


この岩倉にて、1862年から5年もの間

岩倉具視は世間から離れ、身を潜めるように暮らしていたのです。

この邸宅は、その際に購入されたものだそうですよ。

では、どうして公家である岩倉具視が

身を潜めて暮らさなければいけなかったのか?

もちろん、これには理由があります。


当時、黒船来航で揺れる日本において

公家であった岩倉具視は、朝廷の立場を強めようと

公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力体制を取る事)政策に尽力していました。

※公武合体政策の1つに皇女和宮の降嫁などがあります。詳しくは粟田神社の記事をご覧下さい。


岩倉具視幽棲旧宅の門

こちらはかつての門のようです。


岩倉具視幽棲旧(舊)宅

『岩倉具視幽棲旧(舊)宅』と書かれた石碑


入り口

こちらの入り口から中に入ります。


しかし、これがきっかけで

倒幕を企てていた尊王攘夷派から恨みを買ってしまったんですね


同時に、自らを買ってくれていた

孝明天皇(こうめいてんのう)からも距離を置かれてしまったのです。

こうした事から、表舞台を一時、去る事となり

この岩倉の地へとやって来たんですね。

※当時は天誅(てんちゅう・有力者を斬り殺すテロ行為)も度々行なわれていて、岩倉具視もどうやら命を狙われていたみたいです。


こま札

岩倉に来る前にも、京の各地を転々としていたようで

剃髪した岩倉具視は

西賀茂の霊源寺や、洛西の西芳寺で過ごしたようです。


そして40歳を目前にして

この岩倉の地へとやって来ました。


遺髪塚

敷地内には彼の遺髪塚もありました。


岩倉具視の顕彰碑(碑文)

岩倉具視の顕彰碑(碑文)です。2つありますが、1つが井上毅(いのうえ こわし・元熊本藩士で岩倉具視のブレーンとして活躍・教育勅語を起草した人物でも知られます。)、もう1つが大久保利武(おおくぼとしたけ・大久保利通の息子)によるものだそうです。


アカマツ

顕彰碑(碑文)と遺髪塚の間には見事なアカマツがあります。


ちなみに、この家は

岩倉具視がやってくる前からあったそうですが

当時は雨風をしのぐのがやっとという程、老朽化していたみたいですね。

屋根は雨漏りがひどく、柱は傾いていたそうで

岩倉具視自身も日記で

「1日中、掃除をしてみたが、あまりのひどさに、思わず涙がこぼれた・・・。」

なんて書いているそうですよ。

その後、修復工事を行い、なんとか住めるまでになったようです


ちなみに皆さんは

岩倉具視に対して、どのようなイメージがありますか?

実は、公家の中でもかなりの行動派であり

大変頭の良い人物だったようです。

生まれは下級公家でしたが、後に岩倉家の養子となり

孝明天皇の近習(きんじゅ・側近)にまで出世したんですね。


この頃から、関白に対して朝廷改革の意見書を出したり

日米修好通商条約(当時、日本にとって不平等だった条約)の

勅許(天皇の許可)を阻止するべく

勅許賛成派の九条尚忠(くじょうひさただ)の邸宅に

88人もの公家を募り、押しかけたりと・・

積極的に自分の考えを行動でアピールしていた人物だったようです!

※ちなみに、勅許にまつわるこの出来事を『廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)』と言います。


そんな岩倉具視が岩倉村にやって来たのは1862年の事です。

当初は『実相院』にて過ごしていたようですが

1864年よりこの邸宅で生活していたんですね。

こうして岩倉にて約5年の隠棲・幽居生活を送る事となりました。

※この岩倉には当時、彼が足繁く通い参拝したと言われる一言神社(石座神社)などもあります。詳しくは石座神社の記事をご覧下さい。


岩倉具視幽棲旧宅

邸宅は茅葺き屋根の一般的な日本家屋で

二棟の木造平屋建てとなっています

※現在、国の史跡として指定を受け、京都市が管理しているそうですよ。


この旧宅には、もう1つ大きな建物がありまして

対岳文庫

それが、こちらの『対岳文庫(たいがくぶんこ)』です。

1928年に建てられた岩倉具視の資料館です。

ここには、彼にまつわる様々なものが展示してあり

その多くが重要文化財の指定を受けています。


しかしながら、身を隠していた当時の資料や文書は

あまり残っていないようで、維新後の活躍を示すものが多かったですね


ちなみに『対岳』というのは、もともと

岩倉具視の雅号(がごう)だったようで

岩倉村から対峙する雄大な比叡山を見て、その名を付けたようですよ。


当時、この邸宅には

大久保利通(おおくぼとしみち・元薩摩藩士で維新三傑の1人)などが

通っていたと言われ

京の様子は手の取るように伝わっていたみたいですね。


岩倉具視はここで議論を重ねる中で

公武合体政策など、幕府と協力体制をとる考えから

倒幕へのシナリオを描くようになったようです。


考えが変わったかのように見えますが

彼の考えは当初から『朝廷の立場を強める事』を目的としたものでした

その為には、幕府を利用していたにすぎないと

考える事も出来ますね。


対岳文庫

岩倉具視お手植の松です。


句碑

句碑もありました。大正時代の俳人、丸山海道と丸山佳子による句が記されています。『手植松 こゝに 岩倉踊 かな』『万の蝉 維新文筥(ふばこ)に こゑをたむ 』 岩倉踊とは、岩倉具視がここで、近所の少女らを招いて盆踊りを催していたと言われる史実に基づくものだと思われます。詳しくは例大祭 2012 昼神事(石座神社)の記事をご覧下さい。もう1つの句は 維新の功績を残したこの邸宅を文箱に例えたものと思われます。


さて、そんな岩倉具視は

孝明天皇が崩御し

明治天皇が即位した事もあり、1867年に政界に復帰します。


ここから、時代の大きな節目に

岩倉具視の存在が見え隠れする事となります。


岩倉具視はその後

薩摩・長州の両藩に対して、倒幕の密勅を出します。

実は、この密勅は岩倉具視による

勅書(ぎちょく・偽造した天皇からの勅命)だったと言われているんですね。


この密勅が出たところで大義名分が生まれ

いよいよ、薩摩・長州 VS 徳川幕府との全面対決だと思われましたが・・

今度は、徳川幕府15代将軍・慶喜(よしのぶ)が

大政奉還(たいせいほうかん)を行ないました。


つまり、政治運営を幕府から朝廷に返上し、この時点で幕府を消滅させたのです。

※この考え(アイデア)は、反武力派によるもので、勝海舟が原案を作り、土佐藩が幕府に進言したと言われています


こうして、徳川家は潰れる事無く

以後も政治(貿易や財政)を取り仕切る事となりました。

なんといっても、日本で一番財力も武力も持っていましたからね。


明治天皇もまだ幼かったですし

結局、朝廷は慶喜の言うがままだったようです。


つまり・・・何も変わらないじゃないか!という事で

岩倉具視は続いて

慶喜に辞官納地(じかんのうち・官位官職を辞させ、所領を返納する事)

させる計画を企て、結果的に

『王政復古(おうせいふっこのだいごうれい)』が出される事となりました。


結局、こうして徳川の財産や権威を奪おうとしたのです。

これによって幕府と揉める事となり

鳥羽・伏見の戦いに突入する事となったんですね。


ちなみに鳥羽・伏見の戦いと言えば・・

『徳川 VS 官軍』というイメージがありますよね。

実はこの考えを植えつけた人物こそ、岩倉具視だったのです!


数ヶ月前からこうなる事を予想した岩倉具視は

江戸幕府と武力衝突となった際には

『錦の御旗(天皇の軍隊である事の証明)』を掲げて戦う作戦を練っていたそうですよ。


句碑

天皇家の御紋(家紋)である菊花紋があしらわれた灯篭です。


この旗は朝廷軍、つまり天皇の軍隊(官軍)である事を意味し

旧幕府軍は錦の御旗を見た瞬間・・・戦意喪失する者が続出だったそうです。


天皇に歯向かうつもりで

徳川幕府は鳥羽伏見の戦いをしていたのではないのですから

かなりの動揺が走ったでしょう。

これがきっかけで、その後、倒幕は実現され

江戸城の無血開城へと繋がるんですね。

※この辺りのお話は、二条城 その1にて詳しく解説していますので、是非そちらをご覧下さい。


隣雲軒

家の中に上がる事も可能です。こちらは、部屋に飾ってあった額です。岩倉具視は、この邸宅を『隣雲軒(りんうんけん)』と名付けました。


屋内の様子

縁側もあり、とても風情がありましたよ~。


岩倉具視がどれだけ頭のキレる人物か

分かっていただけたのではないでしょうか??

さて、維新後は岩倉使節団(いわくらしせつだん)として

アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国などを回り

不平等条約の撤廃の交渉や、各国の視察を行ないました


これは期間にして1年10ヶ月にもおよぶ大変長いものだったのです。

※ちなみに、岩倉使節団のメンバーの中には、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通などがいたんですよ。


無事に帰国した彼らですが

今度は、留守政府を預かっていた西郷隆盛らと衝突する事となります。

それが・・・

征韓論(せいかんろん)です。


これは武力によって朝鮮を開国するという考え方で

当時、日本の不安材料の1つであった『士族の不満』を取り除く為に

西郷らが出した政策の1つでした。

士族達を日本の外に連れ出して、戦わせようとしていたんですね。


つまり・・戦争です。

しかし、これに異を唱えたのが岩倉具視ら使節団メンバーであり

建前上では「国内情勢を整えるべきだ」と主張していましたが

内情は、自分の留守中に無断で様々な政策が

決まっていく事が気に食わず、立場が危うくなる事を恐れたのではないか?と言われています。

※これを裏付けるかのように同じく使節団として日本を離れていた木戸孝允や大久保利通も岩倉具視に同意見だったようです。


つまりこの決議は、彼らの権力抗争だったと言えます。

結果的に岩倉具視の権限を持って

強引に西郷隆盛の意見を退けたのです。

※征韓論に関して、岩倉具視が明治天皇に上奏(申し上げる事)しなかったんですね


これがきっかけで

西郷隆盛は政界を去り、鹿児島に戻り

その後、西南戦争で官軍と戦う事となってしまうワケです。


これら一連の政治事件を『明治六年の政変(めいじろくねんのせいへん)』と言い

結果的に、征韓論に関して、決議が通らなかった事を理由に

官僚約600人が職を辞したそうです。

※ちなみに、岩倉具視は征韓派の士族に襲われる事件にまで発展したんですね。


土間

かまどを発見!こちらは土間になっています。この他にも、お風呂もありましたよ。


とういう事で

岩倉具視について、ここまでご紹介しましたが

近代日本において

深く携わっている人物である事が分かっていただけると思います。


彼はお札(500円札)にも描かれ

現代の日本においても大変評価されている人物であり

彼が設立した『日本鉄道(にっぽんてつどう)』によって引かれた線路や

建てられた駅は現在、JR東日本に引き継がれています。


この他にも、事実上の東京遷都以後

京都では葵祭が中断していましたが

岩倉具視の提言によって13年ぶりに復活したんですね。


これらの事からも分かるとおり

岩倉具視は近代国家には無くてはならない存在だったのです

そんな岩倉具視がかつて過ごした

岩倉具視幽棲旧宅の場所はコチラ↓


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