こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは・・・
織田信長ゆかりの地巡りです
1534年に尾張国(おわりこく・現在の愛知県)にて生まれた信長は
幼少期、『尾張の大うつけ』と周囲に呼ばれていました。
父親の葬式では
祭壇に抹香(まっこう)を投げつけたというエピソードが有名ですよね。
大人の常識では
理解しがたい行動をとる少年だったようです。
そして皆さんもご存知のように
その後、織田家中の家督争いの末、織田家をまとめ
1560年『桶狭間の戦い』において今川義元を討ちました。
・黄梅院(おうばいいん)
京都府北区紫野大徳寺町83-1(通常非公開)
こちらの黄梅院は
1562年に信長が、父親である信秀(のぶひで)の供養を目的に
建てられた『黄梅庵』を起源とするお寺です。
※以後、秀吉によって本堂などが建てられ、黄梅院と改められました。
当時、室町幕府の将軍であった『足利義昭(あしかがよしあき)』は
三好三人衆(みよしさんにんしゅう・三好氏の一族)に命を狙われ
京から離れていました。
この事から信長は、足利義昭を擁立し
大軍を引き連れて、京へと上洛したんですね
・真如院(しんにょいん)
京都府京都市下京区柿本町677(通常非公開)
真如院の庭園は信長が造営したそうで
ここで信長は義昭を招き、会っていたと伝わります。
・本圀寺跡(ほんこくじあと)
京都府京都市下京区堀之上町532
現在は山科に移築されていますが
かつては六条堀川(西本願寺の近く)にあり
ここで、1569年に『本圀寺の変(六条合戦)』が起こりました。
本圀寺を住まいとしていた足利義昭の元に
三好三人衆が襲撃したんですね。
この時、京を離れていた信長でしたが
義昭の警護を任されていた家臣・明智光秀により
なんとか命を守り
この後、応援に駆けつけた
足利・織田方の軍勢によって三好三人衆に勝利したのです
しかし、信長の傀儡となりつつあった義昭は
彼の力を恐れ、信長包囲網を画策します。
こうして信長と浅井・朝倉軍による
『姉川の戦い(あねがわのたたかい)』が起こりますが
結果的に、信長は勝利する事となりました。
※『姉川の戦い』については養源院の記事について詳しく解説しています。
・本圀寺(ほんこくじ)
京都府京都府京都市山科区御陵大岩6
こちらが現在、移築された本圀寺です。
・比叡山延暦寺
滋賀県大津市坂本本町4220
どんどん勢力を拡大していった信長は
信長包囲網の1つであった比叡山延暦寺と戦います。
※信長が延暦寺を攻めた背景には、姉川の戦いにおいて浅井・朝倉軍を延暦寺がかくまった事が理由の1つに挙げられます。
こうして『比叡山焼き討ち』が行われ
僧侶だけでなく、子供や女性までの首をも信長は刎ねたんですね。
※延暦寺については延暦寺(東塔)、延暦寺(横川)、 延暦寺(西塔)の記事をご覧下さい。
その後、1575年には『長篠の戦い』において武田軍にも勝利します。
・二条殿跡(にじょうどのあと)
京都府中京区両替町通押小路下ル東側
翌年には、信長と親密な関係であった
公家の二条晴良(にじょうはるよし・二条家当主)から
二条殿を譲り受け、ここを改築し
在京時の主な宿としたそうです。
ちなみに、この年より『安土城』の建築も始まったんですよ
・南蛮寺跡(なんばんじあと)
京都府京都市中京区蛸薬師通室町西入ル姥柳町202
キリスト教を保護していた信長は
南蛮寺創建の際には、土地を寄進したとも言われています
このお寺は
イエズス会によって建てられた『教会』だったんですよ
さて、いよいよこの後
皆さんもご存知の『本能寺の変』が、1582年に起こります。
・本能寺跡(ほんのうじあと)
京都府京都市中京区元本能寺南町
現存している本能寺は、後に再建されたものであり
当時、明智光秀の謀反によって行われた『本能寺の変』の跡地には
こうして石碑が立っています。
※『本能寺の変』について、詳しくは阿弥陀寺の記事をご覧下さい。
光秀に攻め入られた信長は自刃し
49年の人生に幕を閉じました。
・大徳寺(だいとくじ)
京都府京都市北区紫野大徳寺町53
信長の葬式は、秀吉が取り仕切り
大徳寺にて行われます。
・総見院(そうけんいん)
京都府京都府京都市北区紫野大徳寺町59(通常非公開)
そして、秀吉は信長の1周忌を目前に
こちらの総見院を建立します
お寺の名前は、織田信長の戒名である
総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀(そうけんいんでんぞうだいしょうこくいっぽんたいげんそんぎ)
から取られたんですね。
※総見院には信長の実物大とも言われる『織田信長坐像』が安置されていて、特別拝観の際は見る事が出来るようです。
・阿弥陀寺(あみだじ)
京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
こちらには信長のお墓があります。
本能寺の変が起こった当時
住職であった清玉上人(せいぎょくしょうにん)が
信長の骨を阿弥陀寺に持ち帰ったという故事が残されているんですね
※清玉上人が骨を持ち帰ったエピソードについては阿弥陀寺の記事をご覧下さい。
境内には織田信長と息子の織田信忠のお墓の他にも
同じく、この時に亡くなった森蘭丸のお墓もあるんですよ
ちなみに、阿弥陀寺では
織田信長の命日(6月2日)に『信長忌』が行われています。
詳しくは過去のレポートをご覧下さい。
・建仁寺(けんにんじ)
京都府京都市東山区小松町584
こちらの方丈前の庭には
織田信長の兄弟である織田有楽斎(おだうらくさい)によって
信長の供養塔が建てられています。
・玉鳳院(ぎょくほういん)
京都府京都市右京区花園妙心寺町60(通常非公開)
織田信長・信忠親子の供養塔があります。
ちなみに、その隣には
信長と戦った、武田信玄や勝頼の供養塔まで並んでいます
・大雲院(だいうんいん)
京都府京都市東山区祇園町南側594-1(通常非公開)
こちらは、織田信長・信忠親子の菩提を弔うため
正親町天皇(おおぎまちてんのう)によって建てられたお寺です。
境内には2人の石碑の他に
天下の大泥棒でおなじみ『石川五右衛門』のお墓もあります。
・本能寺(ほんのうじ)
京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
本能寺の変が起こり、お堂は焼失し
その後、秀吉によって現在地に移築されました。
もちろん、境内には信長の供養塔が建っています。
・建勲神社(たけいさおじんじゃ)
京都府京都市北区紫野北舟岡町49
通称『けんくんさん』の愛称で知られる建勲神社は
信長や息子の信忠を神格化し、祀っています
そして、建勲神社では
足利義昭を擁して入洛した日にちなみ『船岡祭』も毎年行われています。
※船岡祭について詳しくは船岡祭 2012(建勲神社)をご覧下さい。
・織田稲荷社(おだいなりしゃ)
京都府京都市北区紫野今宮町21
同じく、信長が祀られている稲荷社です。
阿弥陀寺が秀吉によって移築され、その跡地に建てられた事を
起源とする神社です。
昭和62年に、今宮神社の境内に場所が移されました
という事で今回は織田信長ゆかりの地を
ご紹介しました!
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