2014-06-12 | |
テーマ:お寺 |
眞乘院(真乗院)
今回ご紹介するのは
ある有名な武将のお墓がある
眞乘院(真乗院)(しんじょういん)です!
有名な武将については
後ほどご紹介するとしまして
まずは眞乘院についてご説明しますね。
こちらの眞乘院は南禅寺の塔頭で
もちろん臨済宗のお寺です
1436年(永享8年)に山名宗全(やまなそうぜん)の支持を得て
月菴宗光(げつあんそうこう)の弟子であった
香林宗簡(こうりんそうかん)によって
創建されたと言われています。
ちなみに香林宗簡は
大徳寺21世住持として山門を造り
その後、南禅寺139世住職にもなった人なんですよ
さて、冒頭でも言いました
ある有名な武将というのは
先ほども名前があがりました
山名宗全です
トップの写真で気付いちゃった方も
いらっしゃるかも知れませんね
山名宗全と聞いてまず思い出すのは
1467年から始まる応仁の乱(おうにんのらん)の
西軍の総大将としての彼だと思います!
そんな山名宗全のお墓が
ここ眞乘院にはあるんですよ。
山名宗全のお墓です。お花がきちんと供えられていました。
では山名宗全とは
どういった人物だったのでしょう
簡単ではありますけれど
山名宗全についてご紹介しますね。
山名宗全は
室町幕府の四職(ししき)の家柄に生まれます
四職というのは、室町幕府の役職である
侍所(さむらいどころ(京都の警備を担当する役職))の長官を
出す4つの家の事なんです。
ちなみに4つの家とは・・・
・山名氏(やまなし)
・赤松氏(あかまつし)
・一色氏(いっしきし)
・京極氏(きょうごくし)
です
そんな山名氏の家は祖父の時代まで
六分一殿(ろくぶのいちどの)なんていうあだ名があったそうですよ。
これは、当時日本は66ヶ国あり
そのうちなんと山名氏だけで
11ヶ国の守護をしていたため
山名氏の当主は六分一殿と呼ばれていたんです!
それだけ山名氏の勢力が全国に及んでいた証拠ですよね
その後、山名氏は一時的に衰退するんですけれど
室町幕府第6代将軍である
足利義教(あしかがよしのり)が
1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で
赤松満祐(あかまつみつすけ)に討たれると
山名宗全は赤松氏追討の主力となり
播磨の白旗城(しろはたじょう)に籠城した赤松満祐を滅ぼし
赤松氏の所領を得て、かつての勢力を取り戻します
※別名『くじ引き将軍』で知られる6代目の足利義教について詳しくは、本法寺の記事をご覧ください
ちなみに山名宗全という名前は
仏門に入ってからの名前で
もともとは山名持豊(やまなもちとよ)と呼ばれていたそうですよ。
彼が築城したと言われる有名な城に
天空の城として話題の竹田城があるんですね~
また、山名宗全は顔が赤ら顔であったため
赤入道と呼ばれたりしていたそうですよ
そんな山名宗全が関係した
最も大きな出来事と言えば
冒頭でもご紹介しました
応仁の乱ですよね
1467年に起こった戦と言われているんですけれど
なぜ起こったのかはっきりとした原因は
わかっていないのが実情なんです。
え?って思いますよね。
もちろん、いくつかの説は当然あるので
ご紹介しましょう
現在、応仁の乱が起こった原因として
あげられているのは
①将軍の継嗣問題(けいしもんだい・世継ぎ問題)
②畠山氏・斯波氏それぞれの家督争い
①と②が複雑に絡み合って
のちに応仁の乱へとなっていくというものです。
そんな応仁の乱で西軍の総大将になったのが
山名宗全なんですね~
今でも京都には西陣という地名がありますけれど
これは応仁の乱の際に
山名宗全が堀川通りよりも西に陣を構えたために
西の陣=西陣
と呼ばれているんですよ
※彼の邸宅跡が西陣に残っているので詳しくは、山名宗全邸宅跡の記事をご覧ください。
しかし長期化した応仁の乱は
山名宗全が1473(文明5)年の3月19日に亡くなり
続いて東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)が
2ヶ月後の5月11日に亡くなると
終息に向かうことになりました
※細川勝元は、世界遺産である龍安寺を創建した事でも有名です!龍安寺について詳しくは、龍安寺 その2の記事をご覧ください。
山名宗全が亡くなった後は
ここ眞乘院に葬られたと言うわけなんですね。
そんな眞乘院の場所はコチラ↓
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1 ■はじめまして。
お世話になっております。京都のお寺について調べ事をしていると、時折こちらのブログへお伺いします。これからも含蓄のある記事を、よろしくお願いします。
江戸っ子太郎さん 2016-06-05 07:26:18
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