2014-04-14 | |
テーマ:史跡 |
山名宗全邸宅跡
今回ご紹介するのは
山名宗全邸宅跡(やまなそうぜんていたくあと)です。
場所は堀川今出川を1筋北へ行き西へ行った所にあります。
場所は京都の西陣と呼ばれる地域で
上京区山名町にあります。
町名にまでなっているんですね
そもそもこの地域を西陣と呼ぶ理由には
山名宗全が大きく関係しています。
※こま札によりますと山名宗全は赤ら顔だったようで、その事から赤入道と呼ばれたりもしたようです。
西陣といえば
京都の高級織物として有名な
西陣織がありますよね。
今でも西陣の町を歩いていると
機織の音がバッタンバッタンと
聞こえてくる地域なんですよ~
さて、先ほども少し触れましたけれど
どうして西陣という地名に
山名宗全が大きく関係しているのかと言いますと
室町時代に勃発した戦
応仁の乱(おうにんのらん)で
山名宗全率いる西軍が
この辺りに陣を張ったからなんです!
西軍の陣・・・つまり西陣というわけなんですね
ちなみに東軍はというと
現在の今出川室町にあったといわれる
花の御所に陣を置いたといわれています。
※花の御所は、足利家の住宅であり室町幕府の事です。
ここで少し応仁の乱について解説をしますと
応仁の乱とは
1467年に京都で勃発した戦で
1477年までの約10年間も続いた
戦だったんですね~
この京都で始まった戦は
やがて全国に波及していき
戦国時代の幕開けとなります。
応仁の乱がなぜ起こったのかは
いくつか諸説がありますけれど
現在、有力な説としては
①将軍の継嗣(けいし)問題
②畠山家・斯波家、それぞれのお家騒動
この2つが原因だと言われています。
こちらの石碑は、山名宗全邸宅跡へ行く手前、堀川通と交差しているマンションの下に立てられています。
継嗣問題というのは
簡単に言うと、次は誰が跡を継ぐのか
という事です。
後継が決まらずに揉めて
戦争にまでなってしまったんですね。
将軍の継嗣問題については・・・
室町幕府8代将軍である
足利義政(あしかがよしまさ)が
自分に子供が出来なかったので
出家していた弟の義視(よしみ)を
還俗(げんぞく)させて
時期将軍にすると決めました。
※還俗とは、出家していた人が再びもとの俗人に戻ることです。
しかしその後、正室である日野富子(ひのとみこ)に
なんと、息子が出来ちゃったんですね
そうなると大変です!
日野富子は当然自分の息子である
義尚(よしひさ)を将軍にしようと画策します。
そこで彼女が頼った人物が山名宗全だったんですね。
しかし、出家していたにも関わらず
兄貴が頼むから、しょうがなく
還俗して、将軍やるって決めたのに
「息子が出来たから、やっぱあの話無しね」
では、義視からしたらたまったもんじゃありません
しかも義視は義政からの頼みを
まだ若いから子供が出来るはず!という理由で
1回断ってるんですね。
それに対して、義政は
「仮に息子が出来ても寺に入れると決めてるし
念書も書いておくから大丈夫!ねっ、お願い義視引き受けてよ~♪」
とまで言うから引き受けたのに・・・
義視の怒りは相当なものだったと思います。
そして、かねてより義視を支持していた
細川勝元(ほそかわかつもと)が
義視側につくと、両者はのちに
細川勝元 vs 山名宗全
という構図になり
全国の守護大名達が
東西に分かれて争い出すんですね
その頃、義政は
東山に引きこもって銀閣寺を建て
東山文化を作り上げました。
ちなみに両軍が衝突したのが上御霊神社だと言われ
上御霊神社の鳥居
境内には、応仁の乱勃発の地という
石碑が立っているんですよ。
※応仁の乱について詳しくは銀閣寺(慈照寺)の記事をご覧下さい。
その後、しばらくして
山名宗全と細川勝元の両名が亡くなると
義尚に将軍は決定し
しばらくして争いは収まるんですね。
当時の日本には66の国があったんですけれど
戦が長引いたせいで
室町幕府の権力は
山城国(京都南部)1国だけしか
権力が及ばなくなっていたそうです
ちなみに応仁の乱は終わったんですけれど
戦争の火蓋は全国に波及して
止めることが出来なくなり
下克上の世の中へとなっていきました。
つまり戦国時代へと突入していったんですね。
そんな山名宗全邸宅跡があるのはコチラ↓
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