2010-10-18 | |
テーマ:お寺 |
本法寺
こんにちは、京子です。
さて、本日は国の名勝にも指定され
芸術の天才と言われている本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の作った
三つ巴の庭が大変有名なお寺・・・
本法寺(ほんぽうじ)です
では、本日もいってみましょーっ。
こちら、本法寺を始めたお坊さんというのが日親(にっしん)
彼は室町時代の僧侶で
「不受不施義(ふじゅふせぎ)」を初めて唱えたお坊さんなのです。
ここからその後の日蓮宗不受不施派が生まれいくのですね。
※不受不施派については常寂光寺で詳しく説明していますのでよければ併せてお読み下さい
さて、まずはこちらが入り口
奥に見えるのがはじめにアップした朱色の仁王門ですね。
金剛力士像もばっちり両端にありましたよ~っ。
そして、仁王門、手前には
大魔利支尊天(だいまりしそんてん)の石碑もありました。
本法寺の境内には大魔利支尊天社もありますけれども摩利支天とは、仏教の守護神のひとつでありイノシシに乗った神様なのです。
こちら本法寺は日蓮宗の本山になります。
さて、いよいよ中へ入ると
さっそく見えるのが
多宝塔~
つーんと尖がってますね♪
色合いがとても綺麗です~
こちらは京都府有形文化財に指定されていますよ。
その多宝塔の向かいにあるのが
経蔵(きょうぞう)
経典や仏教に関する書物を収蔵する倉庫ですね。
こちらは、1588年に建てられたこの本法寺では一番古い建物になります。
そして、その奥に進みますと
ゴーーンゴーーーン
鐘楼がありました~
先ほどの多宝塔しかり、経蔵や鐘楼も色合いがどれも鮮やかで綺麗でした。
ちなみに、こちらの本法寺を建てた日親というお坊さん。
彼は鍋かぶり日親とも言われていまして
鍋を・・・かぶる
どういう事なのかと言うと
このお寺が出来た後、日親は室町幕府6代将軍である足利義教(あしかがよりのり)の元を尋ね
「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないからですよ!」
※日蓮宗では、お釈迦さまの説かれた教えの中でも「法華経」こそが、世の中を救う絶対最高の教えであるとしているそうです。
と説法し、意見をするんですね
しかし義教は日親の危険性を感じ彼の布教活動を強く禁止します。
しかし、日親はそんな事にも構わず
自分の信念を貫き、足利将軍家を改宗させるべく「立正治国論」を著しますが
将軍はこれにより怒り狂い、日親は投獄されちゃいます(汗)
何度言わせるんだー!!ってなもんですよね。
ちなみに、この足利義教は別名、「くじ引き将軍」と言います。
どうしてくじ引き??なのかと言うと
4代目将軍「義持(よしもち)」が
息子である5代目将軍「義量(よしかず)」に将軍の座を移しますが
なんと19歳で死去。
大酒が原因だとされてますけど、その理由は
「部下たちがいう事を聞いてくれない!!!」
将軍なのに、ないがしろにされちゃったんですね。
そして、義持がもう一度、将軍を代行しますけれど・・・建て直しが出来ず
将軍の存在感が薄くなりとうとう将軍不在にまで陥ります。
しかし、「将軍不在による幕政の混乱・地方勢力の台頭」を免れよう
ととにかく将軍を立てなきゃー!
という理由で、
「ま、誰でもいいけどね・・・じゃぁくじ引きで決めようか。」
となっちゃったんです。
そして、それによって選ばれた将軍が6代目義教だったんですね。彼が「くじ引き将軍」と言われる理由はこれなんですね。
ちなみに、義教の代名詞と言えば「万人恐怖」
くじ引きによって決められた義教は
本人から言わせると「神によって選ばれた将軍なのだ!」と言っていて
神による審議を取り入れます。
それが盟神探湯(くかたち)
古代より日本で行われている呪術的な裁判法で神意を取り入れた神明裁判なのです。
具体的な裁き方を説明しますと
将軍「アナタ、嘘ついてますか?」
罪人「いえ、ついてません」
将軍「じゃぁ嘘じゃないならこの釜で沸かした熱湯の中に手を入れてみなさい
もし、嘘をついてなければ火傷しないから。
ただし、嘘なら火傷しちゃうよ」
罪人「えええええええ!(汗)」
よく考えたら、
嘘ついてても、ついてなくても熱湯に手を入れたらみんな火傷するんですけど
この方法で次々と貴族が裁かれ殺されたと言われますから
まさに「万人恐怖」ですよね。
もうそれは織田信長以上の冷酷さかもしれません。
そこで日親も様々な刑に合います。
そのひとつが「焼き鍋を頭に被せる!」というものだったのです。
それでもめげない日親。
むしろ、殺されなかったのが不思議なくらいですよね。
結局、義教が死去した為、罪を許される事となったのですね~♪
※ちなみに、義教は万人恐怖の政治を行うあまり、罰を恐れた家臣「赤松満祐(あかまつみつすけ)」によって暗殺されてしまいます。これを嘉吉の乱(かきつのらん)と言います。
さて、お話は戻しましてこちら、奥の建物が本堂
そして手前の松の木が本阿弥光悦手植え松です。
この、本阿弥光悦というのが後で紹介させていただきますけれども
国の名勝に指定されている「三つ巴の庭」の作者なんですね。
こちらは長谷川等伯(はせがわとうはく)像。安土桃山時代に活躍した同時代を代表する絵師であり、本法寺からの庇護を受けながら、絵を描いて売る「絵屋」として身を立てたようですね。境内の宝物館には彼の作品も展示されていました。
本堂を右に曲がると開山堂があります。
では、いよいよその三つ巴の庭を見に行きましょう~
この唐門の奥へ進むと三つ巴の庭を見る事が出来ますけれども
こちらの門は開きませんので
左側に迂回します。
こちらの庫裏から中へ入ってみたいと思います~。
まず、こちらの庭が十(つなし)の庭。
奥に見えるのが唐門なのですね、つまり丁度裏側にグルっと回った状態ですね。
中には宝物館があり、長谷川等伯筆の「涅槃図(ねはんず)」のレプリカなどがありました。
※涅槃図とは仏陀が横たわったご臨終の様子を描いたもので、人や鳥、獣などが、みんな嘆き悲しみ泣き伏している絵なんですね。
撮影禁止でしたので是非直接足を運んでご覧下さ~い!
そして、渡り廊下を歩く途中に見えて来たのが
上にも書いてますけれど「三つ巴の庭」は
コチラ!
枯山水庭園「三つ巴の庭」
手前が蓮池、その奥に積まれている数々の石が「過去・現在・未来」を象徴しており
この事から三つ巴の庭と言われるようになりました。
石組は水の流れをも表現し、滝が流れているかのような見事な錯覚になります。
そしてそして!
光悦が芸術の天才と言われる最大の理由は・・・
作庭だけでなく、書道や工芸、絵など多岐に渡り活躍したからなんですね。
日本のダ・ビンチ。
特に書の世界で彼は「寛永の三筆」の1人に数えられています。
ちなみに京都出身である光悦は、1615年に徳川家康より、辻斬りや追い剥ぎ(おいはぎ・通行人を襲い、衣服・持ち物などを奪い取ること。)の出没する物騒な土地を与えられましたけれど、ここに光悦は一族や様々な工芸の職人らが移り住まわせ「芸術の集落」へと見事に変えたそうですよ♪
※これが後の光悦寺となります。光悦寺はまた別の機会に取り上げたいと思います。
そんな本阿弥光悦の三つ巴の庭のある本法寺の場所はコチラ↓
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