メモ2014-02-27
テーマ:お寺
関連:高桐院 / 総見院 / 大徳寺 / 瑞峯院 / 龍源院 / 興臨院 / 

聚光院

今回ご紹介するのは

臨済宗・大徳寺の境内塔頭の1つである

聚光院

本堂入り口です。

聚光院(じゅこういん)です。


現在、第48回『京の冬の旅』非公開文化財として

特別公開されているんですよ


第48回『京の冬の旅』看板

看板です。特別公開の期間は1/10~3/18までです♪


聚光院は

1566年、三好義嗣(みよしよしつぐ)が

父である三好長慶(みよしながよし)の菩提を

弔うために建立したお寺と言われています。

※開祖は、大徳寺第107代住職である笑嶺宗訢(しょうれいそうきん・千利休の禅の師)です。


ちなみに

三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の

菩提寺でもあるんですよ

※千利休や三千家について詳しくは、千利休ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。


駒札

駒札です。


三好義嗣についてご説明しますと

彼は戦国時代の武将で

三好氏本家の事実上、最後の当主です

のちに信長と戦い、自害してしまうんですね。

享年25才という若さでした。


そんな義嗣よりも

実は父である長慶の方が有名だったりします!


何故なら長慶は

『三好政権(みよしせいけん)』を

樹立した人なんですね。


え?三好政権って何

って思っている方もいそうなので少しご説明します。


時は戦国時代・・・

応仁の乱(1467年~1477年)頃から続く

群雄割拠の時代ですが

織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされるまで

室町幕府は存在していました。


もちろん影響力は小さくなってはいますけれど

ちゃんと幕府はあったんですね


幕府があるということは

将軍がいて、政(まつりごと)が行われている

という事ですけれど

なんと!長慶は時の将軍である

第13代『足利義輝(あしかがよしてる)』を傀儡にし

幕府の実権を握っちゃいます

言うならば、陰の将軍ですよね~


最大の時で四国から近畿の10ヶ国を支配し

朝廷も庇護していたそうですよ。


これがどのくらい凄い事なのかと言いますと

当時、今川義元(いまがわよしもと)は

3ヶ国(駿河・遠江・三河)を領国としていましたから

かなり強大な力を持っていた事がわかると思います!

※この頃、信長はまだ尾張一国をまとめられていません。


実際、天下人と言ってもいいんでしょうけれど

将軍がいるので

天下人という感じではなくなりますよね。


また長慶は

そんな戦国時代の勇猛な武将と思われがちですけれど

一方で歌やお茶をたしなむ

文化人でもあったんですね

文武両道の武将だということです。


そんな長慶を馬鹿にしてか

文化人としての一面を皮肉る人もいたようです。

それに対して長慶は

見事なまでの反論を和歌で詠むんですよ。


「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」


現代風に訳しますと

「歌を詠むやつはナヨナヨしてる!って言うやつに限って弱いんだよね!!」

と言っているんですよ。

すがすがしいほどに気持ちのいい和歌ですよね~


入り口

入り口です。普段は非公開です。


ちなみに聚光院には

有名な茶室(重要文化財)が2つありまして

1つは『閑隠席(かんいんせき)』です。


表千家7代の如心斎(じょしんさい)が寄進したものだそうで

利休好みの草案風茶室となっています。

※入口は躙口(にじりぐち)になっていて、偉い人でも頭を下げなければ中に入ることが出来ないんですよ。


看板のアップ

看板をアップにして撮ってみました。

堂内は撮影が禁止されていましたので

お見せ出来ないのですけれど

看板に載っているのが閑隠席です。


そして、もう1つは

『枡床席(ますどこせき)』です。

※こちらは普通の入口でした。


変わった名前なんですけれど

半畳の形が枡の形をしている事から

名付けられたそうですよ。

表千家6代の覚々斎(かくかくさい)好みの茶室と

言われています

※毎月28日の『利休忌』には、閑隠席・枡床席でお茶の供養が行われているそうです。


また、狩野永徳(かのうえいとく)の

『花鳥図(かちょうず)』の複製などもありますので

この機会に足を運ばれてはいかがでしょうか。



そんな聚光院の場所はコチラ↓


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