今回ご紹介するのは
臨済宗・大徳寺の境内塔頭の1つである
本堂入り口です。
聚光院(じゅこういん)です。
現在、第48回『京の冬の旅』非公開文化財として
特別公開されているんですよ
看板です。特別公開の期間は1/10~3/18までです♪
聚光院は
1566年、三好義嗣(みよしよしつぐ)が
父である三好長慶(みよしながよし)の菩提を
弔うために建立したお寺と言われています。
※開祖は、大徳寺第107代住職である笑嶺宗訢(しょうれいそうきん・千利休の禅の師)です。
ちなみに
三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の
菩提寺でもあるんですよ
※千利休や三千家について詳しくは、千利休ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
駒札です。
三好義嗣についてご説明しますと
彼は戦国時代の武将で
三好氏本家の事実上、最後の当主です
のちに信長と戦い、自害してしまうんですね。
享年25才という若さでした。
そんな義嗣よりも
実は父である長慶の方が有名だったりします!
何故なら長慶は
『三好政権(みよしせいけん)』を
樹立した人なんですね。
え?三好政権って何
って思っている方もいそうなので少しご説明します。
時は戦国時代・・・
応仁の乱(1467年~1477年)頃から続く
群雄割拠の時代ですが
織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされるまで
室町幕府は存在していました。
もちろん影響力は小さくなってはいますけれど
ちゃんと幕府はあったんですね
幕府があるということは
将軍がいて、政(まつりごと)が行われている
という事ですけれど
なんと!長慶は時の将軍である
第13代『足利義輝(あしかがよしてる)』を傀儡にし
幕府の実権を握っちゃいます
言うならば、陰の将軍ですよね~
最大の時で四国から近畿の10ヶ国を支配し
朝廷も庇護していたそうですよ。
これがどのくらい凄い事なのかと言いますと
当時、今川義元(いまがわよしもと)は
3ヶ国(駿河・遠江・三河)を領国としていましたから
かなり強大な力を持っていた事がわかると思います!
※この頃、信長はまだ尾張一国をまとめられていません。
実際、天下人と言ってもいいんでしょうけれど
将軍がいるので
天下人という感じではなくなりますよね。
また長慶は
そんな戦国時代の勇猛な武将と思われがちですけれど
一方で歌やお茶をたしなむ
文化人でもあったんですね
文武両道の武将だということです。
そんな長慶を馬鹿にしてか
文化人としての一面を皮肉る人もいたようです。
それに対して長慶は
見事なまでの反論を和歌で詠むんですよ。
「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」
現代風に訳しますと
「歌を詠むやつはナヨナヨしてる!って言うやつに限って弱いんだよね!!」
と言っているんですよ。
すがすがしいほどに気持ちのいい和歌ですよね~
入り口です。普段は非公開です。
ちなみに聚光院には
有名な茶室(重要文化財)が2つありまして
1つは『閑隠席(かんいんせき)』です。
表千家7代の如心斎(じょしんさい)が寄進したものだそうで
利休好みの草案風茶室となっています。
※入口は躙口(にじりぐち)になっていて、偉い人でも頭を下げなければ中に入ることが出来ないんですよ。
看板をアップにして撮ってみました。
堂内は撮影が禁止されていましたので
お見せ出来ないのですけれど
看板に載っているのが閑隠席です。
そして、もう1つは
『枡床席(ますどこせき)』です。
※こちらは普通の入口でした。
変わった名前なんですけれど
半畳の形が枡の形をしている事から
名付けられたそうですよ。
表千家6代の覚々斎(かくかくさい)好みの茶室と
言われています
※毎月28日の『利休忌』には、閑隠席・枡床席でお茶の供養が行われているそうです。
また、狩野永徳(かのうえいとく)の
『花鳥図(かちょうず)』の複製などもありますので
この機会に足を運ばれてはいかがでしょうか。
そんな聚光院の場所はコチラ↓
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