2012-03-06 | |
テーマ:お寺 |
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隣華院
こんにちは、京子です!
本日ご紹介するのは
現在、特別公開中の寺院で
妙心寺の境内塔頭である・・・
隣華院(りんかいん)です
豊臣秀吉の家臣であった脇坂安治(わきざかやすはる)をはじめとする
脇坂家の菩提寺です。
彼は、秀吉と柴田勝家が戦った『賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い』において
武功を上げた戦国武将で七本槍(しちほんやり)のひとりなんですよね。
※賤ヶ岳の戦いに関しては養源院の記事をご覧下さい。
そして、この寺院を開山したのは
南化玄興(なんかげんこう)というお坊さんです
彼は秀吉からの信頼が厚いお坊さんで
秀吉の息子「鶴松」の菩提寺(祥雲寺)を建立した事でも知られている高僧です。
※鶴松について詳しくは瑞泉寺の記事をご覧下さい
大玄関より堂内へと上がります。
屋根の部分には鳳凰でしょうか?彫刻がほどこされていました。
そんな、隣華院の見所のひとつが
・長谷川等伯(はせがわとうはく)の『山水図』
・狩野永岳(かのうえいがく)の『四季花鳥図』『西園雅集図(せいえんがしゅうず)』『紅葉図』
なんです
※ちなみに、こちらの看板に写っているのは狩野永岳の『西園雅集図』です。
彼ら2人について簡単にご説明しますと・・・
長谷川等伯は桃山時代を代表する画人です。
能登国(石川県)で生まれた等伯は、30才を過ぎてから京へとやってきます。
絵を売り歩く生活をしていた等伯は
主流であった『狩野派』には強いライバル心があったとも言われます。
その後、徐々に寺院などの障壁画を手がけるようになりました。
そして、狩野永徳が亡くなった事をきっかけに大きな仕事が回りだし
「鶴松」の菩提寺である「祥雲寺」に描いた襖絵が秀吉に気に入られ
名実ともに時代を代表する絵師へとなりました
そして、狩野永岳はというと
江戸時代初期の絵師です。
狩野派(室町から江戸時代まで画壇の中心的存在の一派)の多くは
豊臣家滅亡とともに、江戸に移ったものが多かったそうですけれど
その中で京に残った狩野派を『京狩野(きょうがのう)』と呼びます。
永岳は、そんな京狩野を代表する絵師でり
御所の禁裏などの障壁画も手がけた程の人物なんですね
お堂内は撮影禁止でした。境内ではボランティアの方が詳しく解説して下さいましたよ~。
こちらは凡梵庭(ぼんぼんてい)と呼ばれる庭です。
まず、堂内で京子が見たのは
長谷川等伯の『山水図』という襖絵。
これが完成したのは等伯が61歳の時の作品です。
室内を取り囲むように、襖絵が配置されていています。
北・東・西と3面に別れ設置された襖は、春夏秋冬が表現された水墨画です。
等伯は、大地や木々、人などを通して
四季折々を表現し、二十面にも及ぶ襖絵を完成させました。
水墨画ながら華やかであり、四季を捉えた風景は風格があり雄大です。
見ただけで
思わず、身体の中にすぅ~っと入ってきますね
隣華院では坐禅も気軽に体験出来ます。興味のある方は是非行かれてみては?
そして、次にご紹介するのが
狩野永岳の『西園雅集図(せいえんがしゅうず)』という作品です。
北宋(中国・王朝の一つ)時代の中国を描いた絵で
庭園で遊ぶ、中国の詩人たちの姿を彩り豊かな極彩色によって
描き出しています。
8枚に及ぶ襖絵はどれも保存状態が良く、色落ちもしていないので
まさか、完成から200年以上も経っているとは思えない作品でしたよ
※作品に使われている『岩絵具』は色落ちがしにくい塗料だという説明をされていました。
京子はこの他にも『四季花鳥図』や『松図』『紅葉図』を
拝見しましたよ~。
極彩色豊かな作品でどれも素敵でしたっ。
この他にも『龍図』があったんですけど
龍の指(爪)って何本かご存知ですか
中国の想像上の生き物である龍は中国の絵師によっても
沢山描かれていると思いますけど
皇帝などの身の回りに使うものや障壁画に描く龍には
指が5本あるそうです
ちなみに、朝鮮で描かれる龍は指が4本のものが多く
日本の龍には指が3本のものが多いそうですよ。
隣華院にあった『龍図』も指は3本でした。
もちろん、4本指の龍も日本にはありますけれど
そういった描き分けがされていた事もあるようです。
という事で隣華院の
冬の特別公開は3月18日までですっ
興味のある方は
是非行かれてみてはいかがでしょうか?
そんな隣華院の場所はコチラ↓
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