2011-02-22 | |
テーマ:お寺 |
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海福院
こんにちは京子です
豊臣秀吉子飼いの武将として大変有名な
・・・福島正則(ふくしままさのり)っ
本日は、そんな彼の菩提寺である
海福院(かいふくいん)をご紹介したいと思います~
こちらの海福院は妙心寺の塔頭にあたり
妙心寺境内の中に建てられていますよ~
普段はこちらの海福院は公開されていないんですけど
この度、期間限定で公開される事となったんです~。
しかも、なんと26年ぶり
さて、こちらの海福院は
1616年に福島正則、自ら建てたお寺なんです。
福島正則って・・・一般的なイメージでは
とーっても豪傑な武将
として描かれている事が多いと思いませんか?
槍を持ってぶんぶん振り回して敵をなぎ倒しちゃってる・・みたいな
実は、実際にそのぶんぶん回していた槍というのも
海福院にはあるんですよ~
さて、福島正則のお話は一旦置いておいて
海福院の境内に入ると
苔の敷き詰められ
飛び石が配置されている素敵なお庭ですね~
なんとこちらの住職の奥さまが
毎日かかさずお手入れされているそうです。
そしてお庭のすぐ側にある
手水鉢(ちょうずばち)
江戸時代中期の絵師である円山応挙(まるやまおうきょ)作だそうです。
この手水鉢の側面がちょっと面白いデザインになってまして
半月型に側面の一部が切り取られていて
ちょっと変わった手水鉢でしたよ~
ちなみに、日本の幽霊に足が無い理由っていうのが、この円山応挙に由来するらしいです
と、いうのも彼の書いた足の無い幽霊の絵が世間一般に広く伝わったからだそうです。
そして、本堂へと入っていきます
この中に茶室がありまして
1つ目のお部屋には
「押入仕込茶室」と呼ばれる襖の奥に隠された小さな茶室が備えられている部屋がありました。
そして
狩野益信(かのうますのぶ)の描いた襖絵「山水図」も飾られていました。
またまた立て看板でごめんなさい~
というのも
本堂の中は全て撮影禁止
・・・是非、生でご覧いただければと思います
そして、次に2つ目のお部屋には
江戸幕府の御用絵師である狩野探幽(かのうたんゆう)が
このお寺の住職の留守中に
新調された襖に彼が描いたとされる「猿回し図」というのがありましたよ。
現在は金箔が剥がれ、跡が残る程度でしたけれど、その猿回しの絵も確認する事が出来ました
そして、一番奥の部屋に入ると・・・
福島正則の肖像画がありました
こちらの絵は福島正則の家臣の一人、上月文右衛門に描かせたものだそうですよ。
他にも
賤ヶ岳の戦いで一番槍として武功を上げた時に
実際に使っていたとされる槍や
福島正則が戦地で敗れた部下の血を入れて飲んだといわれる
「陣中杯(じんちゅうはい)」と呼ばれる貝殻があったりと
彼にまつわる寺宝を沢山目にする事が出来ましたよ~
それにしても、部下の血を飲んだり・・・
槍を使って大きな武功を上げたりと・・・
豪快な逸話に基づくものが海福院に残っていますけれど
彼は幼少の頃から秀吉の下にいたんですね。
秀吉子飼いの武将として有名なのが、この福島正則と、加藤清正(かとうきよまさ)なんですね♪ちなみに、この2人は年の差も1歳違いという事もあり良きライバルであり、良き同士であったと言われています。
さて、秀吉の家臣として活躍していた福島正則は
どんどん出世を重ね
なんと24万石の武将にまで出世しちゃいます
しかし、・・・ここで秀吉が死去します。
そして起こったのが
「関ヶ原の戦い」なんですよね~。
秀吉の死後、家臣達が東西に分かれて争った戦です。
西軍の石田三成と仲の悪かった福島正則は、東軍の徳川家康と組んで戦う事となります。
もちろん、皆さんもご存知の通り関ヶ原の戦いでは、東軍の勝利となり
ここでも、武功を上げちゃった福島正則は家康から広島に約50万石を得る事となりました。
関ヶ原で石田三成に勝った家康は
その後も地盤固めを徐々に勧め
江戸幕府を1603年にスタートさせます。
そして、いよいよ始まってしまったのが
大阪冬の陣、夏の陣(1614~15年)ですね。
徳川が大軍を引き連れ大阪城へと攻め入ります。
さて、この時福島正則は
どうしていたかと言うと
・・・どうする事も出来なかったんですね
徳川を裏切り勝手な事をして自分の家臣たちを路頭に迷わす事も出来ないですし
かといって親同然の秀吉の息子である秀頼を裏切る事も出来ない。
徳川幕府と豊臣家との板ばさみになっちゃったんです。
豊臣家から応援を頼まれるも、米を献上しただけで、どうする事も出来ず・・・しかも、その米の献上も幕府にバレてしまい、江戸から動けなくなってしまいます。
そんな福島家を潰す動きも徳川家では出て来たんですね
家康が死去し、秀忠が2代目の将軍についた頃、
福島正則は江戸幕府から「武家諸法度違反」に問われるんです。
違反というのが幕府に内緒で勝手に
城の増改築をしてしまった・・・という事。
実は、台風被害にあった広島城の修理を行う為
幕府にずっと修繕の許可を願い出ていた福島正則だったんですけど
なかなか許可が下りなかったんですね
※一説には徳川幕府内での政権争いにただ巻き込まれただけという説もあります。
なかなか、許可が下りない為に
痺れを切らして、広島城の改築を行ったところ・・・
幕府から・・・
「違反だーーーー!そして領地没収決定!!」
と、言われ広島の領地であった50万石を全部没収されちゃうんです
福島家は広島城から出て行く事を余儀なくされるんですね。
この時、豪傑で有名であった福島家は幕府の要請に、潔く無血開城したのでした。
そして、福島家は広島の領地を没収された後、
信州の4万5,000石へと移動させられちゃったのでした
福島正則はそこで晩年を過ごす事となります。
これに加えて、跡継ぎである息子が先に死んでしまい
この事から、息子に継がせていた領土の2万5,000石が幕府に返上される事となりました。
一時期は50万石も持っていたのに。。。晩年には2万5,000石になったというワケです。
彼の死は謎に包まれています。
福島正則が死んだという知らせを受け
幕府の使いが死体を確認しにやって来た時には
すでに火葬が行われていました。
んどういう事なのでしょうか。
これに対して、幕府派は福島正則の死因が不審であるとして福島家には領地相続を認めず、3000石の旗本に落とされてしまったというワケです。
この事から推測出来る事は
福島正則の死体を幕府に見られると都合が悪い理由があったでしょうか
それとも
本当に何の理由も無しに火葬しちゃって幕府が検視が出来ない事をいい事に、幕府側が領地没収の口実にしちゃったのか
うーん、豪傑の裏側にこんな悲しい最後があったなんて・・・
ただひとつ、明るいニュースとして!
福島正則の直系の血は今も絶えずに続いているそうですよ
こちらは境内にあった福島正則のお墓。
早くに亡くなった息子さんのお墓も、隣に仲良く並んでいました
そんな福島正則の菩提寺である海福院の場所はコチラ↓
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