2014-08-19 | |
テーマ:お寺 |
本覚寺
今回ご紹介するのは
京都市の下京区にある
本覚寺(ほんがくじ)です!
ちなみに本覚寺のあるこの場所は
本塩竃町(もとしおがまちょう)といって
平安時代初期には
源融(みなもとのとおる)が
六条河原院を営んだとされる場所なんですよ
なぜ塩竃という地名がついているのかと言いますと
源融が河原院内に
陸奥(現在の宮城県)にあった
塩釜の浦(しおがまのうら)を模した庭園を
造った事に由来しているんですね
※塩釜の浦は、籬島(まがきしま)と呼ばれる島があり、昔は海水を焼いて塩を作る所で有名だったそうです。
源融と言えば
皆さんご存知!源氏物語の主人公
『光源氏』のモデルの1人と言われている
人物ですよね~
※河原院について詳しくは源融 河原院跡の記事を、源氏物語について詳しくは源氏物語ゆかりの地巡りの記事をご覧ください。
そんな源融が造った河原院の跡地に建っているのが
今回ご紹介する本覚寺なんです。
ちなみに現在、河原院の跡には民家や本覚寺の他
・極楽寺(ごくらくじ)
・金光寺(こんこうじ)
・西念寺(さいねんじ)
・荘厳寺(しょうごんじ)
・新善光寺(しんぜんこうじ)
・浄運院(じょううんいん)
・上徳寺(じょうとくじ)
・千喜万悦天満宮(せんきまんえつてんまんぐう)
・宗仙寺(そうせんじ)
・高市稲荷神社(たけちいなりじんじゃ)
・竹林寺(ちくりんじ)
・等善寺(とうぜんじ)
・徳林院(とくりんいん)
・白毫寺(びゃくごうじ)
・福田寺(ふくでんじ)
・萬年寺(まんねんじ)
・蓮光寺(れんこうじ)
といった寺院がいくつもあるんですよ!
では早速レポートしていきましょう
本覚寺と書かれた石碑。浄土宗のお寺で、山号は佛性山(ぶっしょうざん)といいます。
山門をくぐって中に入ると
勅旨門があります。
勅旨門の前には百日紅(サルスベリ)が咲いていましたよ~
こちらが本堂です。
本堂には、ご本尊に
阿弥陀如来像が安置されているそうです。
ちなみに本覚寺は
鎌倉幕府第3代将軍である
源実朝(みなもとのさねとも)の後室
坊門信子(ぼうもんのぶこ)が
1222年(貞応元年)に
西八条の遍照心院(へんじょうしんいん:大通寺)内に 創建したのが始まりのようです。
※遍照心院は源実朝の菩提寺の1つなんです。
本堂にかかっている額。佛性山と書かれています。
本覚寺という名前も
信子の法名である『本覚』から取られているそうですよ
寺紋の瓦
ここで少し源実朝についてもご紹介しますと
実朝は、武士で始めて
右大臣まで出世した人物なんですね
和歌などに優れた人物であったと伝えられていて
彼が詠んだ和歌、約700首を収録した
『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』という
歌集があったりします
ちなみに百人一首に
作者が鎌倉右大臣と書かれた和歌が一首ありますけれど
それは実朝の事なんですね。
※金槐和歌集は別名『鎌倉右大臣家集』とも呼ばれています。
そんな実朝なんですけれど・・・
1219年(建保7年)
鎌倉にある鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で
公暁(くぎょう)により
なんと暗殺されてしまいます
実は、鎌倉幕府初代将軍である
源頼朝(みなとものよりとも)が亡くなると
2代目に源頼家(みなもとのよりいえ)がなるんですけれど
北条時政(ほうじょうときまさ)によって
頼家は幽閉され殺されてしまうんですね。
その後、実朝が将軍となるわけなんですけれど
なんと、頼家の息子である公暁が
「父の敵(かたき)~!!」と言って
実朝を殺しちゃうわけなんです
公暁は自分の父である頼家が殺されたのは
実朝のたくらみによるものだと
思っていたようですよ
実朝が居なくなれば
自分が将軍になれると公暁は思っていたんですけれど
思ったように事は運ばず
公暁も殺されてしまうんですね~
ちなみに頼朝が作った鎌倉幕府なんですけれど
実朝の後、源氏将軍は断絶となってしまいました。
そんなわけで殺された
実朝の菩提寺として遍照心院が建てられ
その中に本覚寺は建てられたというわけなんです。
その後、本覚寺は
各地を転々とするんですけれど
1591年(天正19年)に
豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって
現在地に移されたそうです
本覚寺の墓地には江戸時代中期に
八文字屋本(はちもんじやぼん)と呼ばれるベストセラーを
相次ぎ刊行し出版社の全盛期を築いた
八文字屋自笑(はちもんじやじしょう)のお墓があるんですよ。
山門前に建てられていた石碑。
八文字屋本は、浮世草子の一種と言われているので
現代で言う小説だと思います
そんな六条河原院の跡地に建つ
本覚寺の場所はコチラ↓
大きな地図で見る Tweet
雑談掲示板 新着