2014-07-04 | |
テーマ:お寺 |
関連:東福寺 / 東福寺 その2 / 東福寺の紅葉 / 勝林寺 / 芬陀院 / 退耕庵 / 龍吟庵 / 善慧院・明暗寺 / 即宗院 / 同聚院 / |
天得院
今回ご紹介するのは
東福寺(とうふくじ)の25ある塔頭の1つ
天得院(てんとくいん)です!
天得院は通称
『桔梗の寺(ききょうのてら)』と呼ばれるほど
桔梗で有名なお寺なんですよ
瓦にも桔梗が使われていますね~
そんなに桔梗が有名なら
日曜日にでも見にいこうかな~
なんて思って頂けるかも知れませんけれど
天得院は通常非公開のお寺なため
公開されているのは7月5日(土)までなんです
ずばり明日までなので注意して下さいねっ。
ちなみに、天得院の公開時期は
毎年6月中旬から7月中旬(桔梗を愛でる特別拝観)と
11月の2回です。
桔梗と紅葉の季節に合わせて公開されています
そんな天得院は正平年間(1346~1370年)に
東福寺第30世住持の
無夢一清(むむいっせい)禅師によって創建された
臨済宗東福寺派のお寺です。
山号は萬松山(ばんしょうざん)と言います。
※東福寺について詳しくは、東福寺 その1、東福寺 その2の記事をご覧ください。
一時は東福寺5塔頭の1つとして
大いに栄えたそうなんですけれど
衰退してしまったと言われているんですね。
その後、大機慧雄(だいきえゆう)禅師によって
再興されたんですけれど
東福寺第227世である
文英清韓(ぶんえいせいかん)が住持になった時 ある大変な事が起こってしまいました
その事はまた後ほど紹介するとしまして
早速、レポートをしていきましょう♪
山門にあった慈母観音です。
山門をくぐって中に入ると
左手に庫裏があります。
拝観の際はこちらの庫裏から入っていきます。
庫裏の手前には筆塚がありました
こちらは荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑です。
「石のしたしさよしぐれけり」と書かれていて、井泉水が天得院で詠んだものです。
昭和に活躍した童話作家であり小説家『花岡大学(はなおかだいがく)』が詠んだ碑がありました。 「お父ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ お母ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ」
庫裏から方丈の中に入ると
方丈前の枯山水庭園には
一面杉苔で覆われた中に
ところどころ紫色や白色の
桔梗が咲き誇っていましたよ~
桃山時代に作庭された枯山水庭園。
どうですか??
桔梗の寺と呼ばれるだけありますよね!
こちらは華頭窓(かとうまど)から西庭をパシャリ
華頭窓と桔梗の組み合わせが美しいですよね~
そしてこちらは西庭から撮った方丈です。
方丈にはご本尊である千手観音が安置されていました。
ちなみに天得院では
お抹茶も頂く事が出来るんですよ
和菓子も桔梗になっていて
食べるのがもったいくらい
可愛いですよね。
書院です。
また予約をすれば
精進料理『桔梗膳』を出して頂けるみたいですよ
さて冒頭でも言いました
清韓の時代に起こったある大変な事とは
『方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)』 の事なんですね!
時は江戸時代の1614年
清韓は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の息子である
豊臣秀頼(とよとみひでより)の依頼で
方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)に刻む
銘文を撰文(せんぶん)することになります。
※撰文とは、文章を作る事です。
つまり鐘に刻む文章を依頼したという事ですよね。
実は清韓は漢詩に大変秀でていた事もあって
秀吉と秀頼から特別な待遇を受けていたんです
そういった事から
方広寺の銘文を頼まれたというわけです。
しかしその銘文が後に
豊臣家を滅亡へと追い込むきっかけに
なってしまうんですよね~
こちらの写真は実際に
清韓が撰文した銘文が刻まれた
方広寺の梵鐘なんですけれど
鐘に刻まれた白く囲まれた部分
『国家安康 君臣豊楽(こっかあんこう くんしんほうらく)』の
字に言いがかりをつけられてしまいます。
言いがかりをつけた人は
江戸幕府初代将軍である
徳川家康(とくがわいえやす)です
家康は
「家康の名前を二分し、豊臣を君主とするという意味ではないのか
徳川を滅ぼし、豊臣の繁栄を願うとは何事だ」
と・・・言うわけです。
はっきり言ってこれは言いがかり以外の
何物でもないですよね
なぜ言いがかりなのかと言いますと
国家安康、君臣豊楽という文字は
他の鐘や日常でも普通に使われていたからなんです。
ちなみに、この言いがかりを家康に授けたのが
金地院崇伝(こんちいんすうでん)と呼ばれる
黒衣の宰相『以心崇伝(いしんすうでん)』と言われています。
※黒衣の宰相とは、僧職でありながら権力を持った人の異名の事です。崇伝について詳しくは、金地院の記事をご覧ください。
それにしても家康はどうして
こんな言いがかりをつけたんでしょうね?
気になるその理由は・・・
方広寺の記事をご覧ください
さて、そんな言いがかりをつけられた
清韓は驚き、そんな意図は無いということを
片桐且元(かたぎりかつもと)を通して弁明しますけれど
家康サイドは受け入れてくれません
そして天得院は方広寺鐘銘事件が元で
取り壊されてしまったそうです
その後、家康は兵を
秀頼がいる大坂城に向ける事となります。
これが、大坂の陣と呼ばれる戦なんですね。
※大坂の陣については、蓮光寺の記事をご覧ください。
清韓は戦の最中でも
秀頼の側を離れなかったと言われています。
しかし2度目の大阪夏の陣でとうとう敗北が決まると
清韓はなんとか城を逃げ出す事に成功したようですけれど
捕まってしまい蟄居(ちっきょ・今で言う自宅謹慎)を命じられます。
その後、家康が亡くなると清韓に対する
監視の目もゆるくなり
清韓はのちに許される事になったそうですよ
その後、天得院は
1789年にようやく再興され
1868年(明治元年)には東福寺の塔頭である本成寺と
合併して現在に至るというわけなんですね。
天得院には、清韓のお墓もあるんですよ。
ちなみに天得院は夜8時まで拝観ができ
ライトアップもされるので
お昼はいけないけれど夜だとなんとかなる!
という方は足を運ばれてみてはいかがでしょうか
そんな天得院の場所はコチラ↓
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