2014-02-18 | |
テーマ:史跡 |
子安観世音
本日は
ある石仏をご紹介したいと思います。
まずはこちらの写真をご覧下さい
どうですか!この立派な石仏!
高さは2メートルくらいはあると思います。
京都市内に住んでる人で
もしかすると知らない人はいない
という程、有名な石仏なんですね。
しかし、その堂々たるお姿に
有名は有名なんですけれど
名前はあまり知られていなかったりします
名前は
『子安観世音(こやすかんぜのん)』と言って
観音様の石仏なんですよ。
説明書きによりますと昔から地元の人々の信仰が篤かったそうです。
ちなみに、どこにあるのかと言いますと
百万遍(ひゃくまんべん・左京区にある地名)をちょっと東に入った
今出川通(いまでがわどおり)と
志賀越道(しがごえみち)の交差点にあります。
※志賀越道は滋賀県に繋がる道です。地元の人には山中越え(やまなかごえ)とも呼ばれています♪
もともとこの地は
旧白川村と旧吉田村の境だったようで
白川口(しらかわぐち)と呼ばれていたそうですよ
※近くには京都大学や吉田神社、百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)があります。
さて、話を戻しまして・・・
石仏について詳しく解説していきましょう
まず、作られた時期は
なんと鎌倉時代だそうで
江戸時代の後期に
この地に安置されたと言われてるんですね~。
ちょっと凄すぎませんか?
江戸時代からここにいらっしゃったなんて・・・
ちなみに1787年、江戸時代の後期に発行された
京都名所案内『捨遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)』には
「北白河の石佛は希代の大像(だいぶつ)にして・・・」と
図版とともに紹介されていたりします。
希代の大像って表現されている事からも
当時の人達の間でも有名だったんでしょうね
また、白川と言えば、
白川女(しらかわめ)が思い浮かびますけれど
時代祭に参加している白川女です。平安時代には、白川の地には大きな花畑が広がっており、白川女はそこで花を摘み京の都に売り歩く行商を行っていたと言われています。
彼女達も洛中(京の都)に
花を売りに行く際には
必ずここで花をお供えしてから
向かったそうです。
今も素敵なお花が供えられていました
※白川女について詳しくは、太陽カフェの記事をご覧下さい。
さて、そんな子安観世音なんですけれど
ある天下人と接点があるんですよ
その天下人というのが
日本の歴史上、最も出世したと言われる人物
豊臣秀吉(とよとみひでよし)なんですね
あるとき
秀吉がとある噂を聞きつけます。
それは子安観世音が
夜な夜な動き出すといったものだったそうで
秀吉は自分の屋敷『聚楽第(じゅらくだい)』に
運び込んで様子を見ることにしました。
するとその日から
夜な夜な泣き声が聞こえてくるようになった
と言われています
泣き声のする所に行ってみると
なんと子安観世音が
「白川の地に帰りた~い!」と
泣いていたというんですね~。
それで秀吉は仕方がないので
もとの場所に戻したと言われ
この話から子安観世音は
『太閤の石仏』や『太閤地蔵』とも
呼ばれているんですよ~
※このお話は『花洛名勝図会(からくめいしょうずえ)』、『山州名跡志(さんしゅうみょうせきし)』などの地誌で記述されているそうです。
また不運な事に
江戸時代、度重なる火事によって
子安観世音が燃えたこともあるそうですよ!
その火事が原因で両腕が失われ
首も落ちたことがあるみたいです
その後、首は
元通りになったそうなんですけれど
そのせいで、首切れ地蔵と
呼ばれることもあったとか・・・
しかも、それだけではないんです!
1996年には、なんとトラックが衝突して
再び首が落ちちゃったんです!
なんともついてない石仏ですね
※現在、首は元通りに戻されています。
ちなみに
8月17日には盆供養
11月17日にはお火焚が
行われているそうですよ
というわけで今回は子安観世音をご紹介しました~!
子安観世音の安置されている場所はコチラ↓
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