メモ2010-10-26
テーマ:お寺
関連:青葉まつり(智積院) / 

智積院

こんにちは、京子です!

さてさて~

本日は

ある2つのお寺が元となって作られた

少し変わったお寺であり

安土桃山時代に活躍した絵師

長谷川等伯(はせがわとうはく)一派によって

描かれた数々の障壁画が眠るお寺・・・

智積院の入り口

智積院(ちしゃくいん)です


さて、その2つのお寺というのは一体何なのかと申しますと

智積院のこま札

そもそも智積院は

覚鍐(かくばん)というお坊さんが紀州(和歌山)にある

根来山(ねごろさん)大伝法院の

塔頭(たっちゅう・境内の中に建てた小院)の

ひとつであったんですね


しかーし!この紀州にあった智積院は

ある一人の戦国武将によって焼き討ちに合うのです。


智積院の石碑

智積院は真言宗智山派総本山の寺院になります。


さて、その戦国武将とは誰でしょう


ヒントは・・・


ウキキキー!!!!!

うふふ、もうお分かりですよね~っ。

当時の宣教師「ルイス・フロイス」が残した日本史には

その戦国武将には指が6本あったとまで言われた男・・・


そう豊臣秀吉です。

彼が紀州にあった智積院を焼き討ちにしたんですね。


では、そのお話と同時進行で、智積院の中へ入ってみましょーっ。

正面の門からは入る事が出来なかったので

壁沿いに右手へ歩いて行くと

智積院の鳥居

こちらから入る事が出来ますっ。


境内はなかなかの広さでざっと回るには1時間弱はかかりそうですね~

ワクワクしながらこちらの門を潜ります


智積院の境内

さてさて道なりにどんどん歩くと

見えてきたのは・・・


智積院の南化玄興像

南化玄興(なんかげんこう)というお坊さん。

じつはこちらのお坊さんが、もうひとつのお寺を開基した人物でもあるんですね。

そのお話はまた後ほど~っ!


さて、突き当たりまで歩くと

智積院にある金堂

金堂が見えて来ました~。

中からは何やら・・


お経を読む声が響いてきます。

京子も言われるがままお焼香をして中へ入ってみましたっ。

中は広く、金堂の本尊である大日如来様がどどーーんと祀られておりました


智積院にある金堂の額

金堂にあった立派な額っ。


さて、この金堂の右手には・・


見えてきましたっ。

智積院にある明王殿

明王殿(みょうおうでん)

1947年に火災に見舞われ、現在の明王殿は京都のお寺のひとつ、大雲院(だいうんいん)から持って来られたそうです。こちらのご本尊は不動明王様で、明王殿は別名「不動堂」とも呼ばれています。


智積院の梵鐘

こちらは梵鐘ですね~っ。


紀州にあった智積院は当時、秀吉と対立していて

(この辺りには、「根来衆」とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団がいたそうです)

焼き討ちにあってしまうんですね。

智積院が無くなった状態のまま、その後月日は流れます。


さて

こちらの智積院には2つのお寺が元となっていると

冒頭でも言いましたけれど


1つが、先ほど説明しました「紀州にあった智積院」ですね。

そして、もう1つは祥雲寺(しょううんじ)と呼ばれるお寺です。


この祥雲寺があった土地に

現在の智積院が新しく建てられたのですね

※ちなみに祥雲寺の開基が先ほどご紹介した銅像の南化玄興です。


ここで突然ですが

秀吉の息子の「秀頼(ひでより)」は有名ですけれど

実は、その秀頼が生まれる以前に、もう一人秀吉の息子が

いたのをご存知ですか


その名も、鶴松(つるまつ)と言います。

では、どうして秀吉の息子でありながら時代の表舞台には

一切出てきてないんだろう??


・・・と思った方もいらっしゃいますよね?


その理由とは

鶴松は3歳で病死してしまったからなんです(泣)

秀吉が50を過ぎてからの、初めての子供であった鶴松。生まれた時は秀吉もさぞ喜んだ事だろうと思いますけれど3歳で息子に先立たれ・・・悲しかったでしょうね。そんな鶴松の菩提の為に建てられたのが祥雲寺でした。


なんだか、ここまで説明しても

「紀州にあった智積院」がどうして「祥雲寺」のあった場所にあるのか

余計に謎ですよね。


正反対とも言っていい2つのお寺。


その理由は最後にとっておいて引き続き、

智積院の境内をご紹介したいと思います~!!!


金堂から左へと足を運んでみましょう~っ。


智積院の大師堂

道の向こうのに見えている建物は大師堂。

中には、空海のご尊像が安置されています。

真言宗の開祖といえば空海ですよね。


智積院にある弘法大師空海の像

弘法大師空海の像もありました。

智積院にある稚児大師像

稚児大師像は空海の幼少の頃のお姿です。


智積院の講堂

そして、こちらは講堂

中に入ってみると、数々の国宝が眠っていましたよー!


祥雲寺の頃に残された

長谷川等伯とその一派によって描かれた

「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」

金箔をあしらった賢覧豪華な障壁画の数々


こちらにはレプリカですが残されています~♪

智積院の襖絵

手前が、楓図で奥が桜図です。

智積院の屏風絵

こちらは屏風絵「布袋唐子嬉戯(ほていからこきぎ)の図」。


智積院の高浜虚子の句碑

講堂の手前には明治時代の俳人「正岡子規」の弟子である高浜虚子(たかはまきょし)の句碑。


そして、こちらの智積院には素敵な庭園もあるんですよ~っ

智積院にある講堂横

講堂をぐるーっと右へ回り込むと・・・


見えてきましたっ♪


智積院にある庭園

こちらが

利休好みの庭と伝えられる名勝の庭園です!

中国の廬山(ろざん)という山を表現し造られています。

地面の高低差を利用し大小の山々が石で造られ

その前には池が掘られています。

智積院にある庭園2

写真、右手を見るとサツキ、ツツジが刈り込まれているのがわかりますか?

これは琴を表したものだそうですっ


さて、お話を戻しまして

秀吉によって焼き討ちに合い無くなってしまった

「紀州にあった智積院」が

秀吉の息子「鶴松」を菩提の為に建てられた

「祥雲寺」に来た理由とは


秀吉が没し、天下が家康のものとなった事によります。

徳川家康は日頃から帰依していた智積院住職へ土地を寄進。

その土地というのが祥雲寺だったんですね~。


秀吉の手で焼き払ったお寺が

まさか、自分の息子を弔う為に建てたお寺の場所に

建てられたんですから

秀吉からするとなんとも複雑な心境でしょうね~(汗)


そんな智積院の場所はコチラ↓

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