こんにちは、京子です!
さてさて~
本日は
ある2つのお寺が元となって作られた
少し変わったお寺であり
安土桃山時代に活躍した絵師
長谷川等伯(はせがわとうはく)一派によって
描かれた数々の障壁画が眠るお寺・・・
智積院(ちしゃくいん)です
さて、その2つのお寺というのは一体何なのかと申しますと
そもそも智積院は
覚鍐(かくばん)というお坊さんが紀州(和歌山)にある
根来山(ねごろさん)大伝法院の
塔頭(たっちゅう・境内の中に建てた小院)の
ひとつであったんですね
しかーし!この紀州にあった智積院は
ある一人の戦国武将によって焼き討ちに合うのです。
智積院は真言宗智山派総本山の寺院になります。
さて、その戦国武将とは誰でしょう
ヒントは・・・
ウキキキー!!!!!
うふふ、もうお分かりですよね~っ。
当時の宣教師「ルイス・フロイス」が残した日本史には
その戦国武将には指が6本あったとまで言われた男・・・
そう豊臣秀吉です。
彼が紀州にあった智積院を焼き討ちにしたんですね。
では、そのお話と同時進行で、智積院の中へ入ってみましょーっ。
正面の門からは入る事が出来なかったので
壁沿いに右手へ歩いて行くと
こちらから入る事が出来ますっ。
境内はなかなかの広さでざっと回るには1時間弱はかかりそうですね~
ワクワクしながらこちらの門を潜ります
さてさて道なりにどんどん歩くと
見えてきたのは・・・
南化玄興(なんかげんこう)というお坊さん。
じつはこちらのお坊さんが、もうひとつのお寺を開基した人物でもあるんですね。
そのお話はまた後ほど~っ!
さて、突き当たりまで歩くと
金堂が見えて来ました~。
中からは何やら・・
お経を読む声が響いてきます。
京子も言われるがままお焼香をして中へ入ってみましたっ。
中は広く、金堂の本尊である大日如来様がどどーーんと祀られておりました
金堂にあった立派な額っ。
さて、この金堂の右手には・・
あ見えてきましたっ。
明王殿(みょうおうでん)
1947年に火災に見舞われ、現在の明王殿は京都のお寺のひとつ、大雲院(だいうんいん)から持って来られたそうです。こちらのご本尊は不動明王様で、明王殿は別名「不動堂」とも呼ばれています。
こちらは梵鐘ですね~っ。
紀州にあった智積院は当時、秀吉と対立していて
(この辺りには、「根来衆」とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団がいたそうです)
焼き討ちにあってしまうんですね。
智積院が無くなった状態のまま、その後月日は流れます。
さて
こちらの智積院には2つのお寺が元となっていると
冒頭でも言いましたけれど
1つが、先ほど説明しました「紀州にあった智積院」ですね。
そして、もう1つは祥雲寺(しょううんじ)と呼ばれるお寺です。
この祥雲寺があった土地に
現在の智積院が新しく建てられたのですね
※ちなみに祥雲寺の開基が先ほどご紹介した銅像の南化玄興です。
ここで突然ですが
秀吉の息子の「秀頼(ひでより)」は有名ですけれど
実は、その秀頼が生まれる以前に、もう一人秀吉の息子が
いたのをご存知ですか
その名も、鶴松(つるまつ)と言います。
では、どうして秀吉の息子でありながら時代の表舞台には
一切出てきてないんだろう??
・・・と思った方もいらっしゃいますよね?
その理由とは
鶴松は3歳で病死してしまったからなんです(泣)
秀吉が50を過ぎてからの、初めての子供であった鶴松。生まれた時は秀吉もさぞ喜んだ事だろうと思いますけれど3歳で息子に先立たれ・・・悲しかったでしょうね。そんな鶴松の菩提の為に建てられたのが祥雲寺でした。
なんだか、ここまで説明しても
「紀州にあった智積院」がどうして「祥雲寺」のあった場所にあるのか
余計に謎ですよね。
正反対とも言っていい2つのお寺。
その理由は最後にとっておいて引き続き、
智積院の境内をご紹介したいと思います~!!!
金堂から左へと足を運んでみましょう~っ。
道の向こうのに見えている建物は大師堂。
中には、空海のご尊像が安置されています。
真言宗の開祖といえば空海ですよね。
弘法大師空海の像もありました。
稚児大師像は空海の幼少の頃のお姿です。
そして、こちらは講堂
中に入ってみると、数々の国宝が眠っていましたよー!
祥雲寺の頃に残された
長谷川等伯とその一派によって描かれた
「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」
金箔をあしらった賢覧豪華な障壁画の数々
こちらにはレプリカですが残されています~♪
手前が、楓図で奥が桜図です。
こちらは屏風絵「布袋唐子嬉戯(ほていからこきぎ)の図」。
講堂の手前には明治時代の俳人「正岡子規」の弟子である高浜虚子(たかはまきょし)の句碑。
そして、こちらの智積院には素敵な庭園もあるんですよ~っ
講堂をぐるーっと右へ回り込むと・・・
見えてきましたっ♪
こちらが
利休好みの庭と伝えられる名勝の庭園です!
中国の廬山(ろざん)という山を表現し造られています。
地面の高低差を利用し大小の山々が石で造られ
その前には池が掘られています。
写真、右手を見るとサツキ、ツツジが刈り込まれているのがわかりますか?
これは琴を表したものだそうですっ
さて、お話を戻しまして
秀吉によって焼き討ちに合い無くなってしまった
「紀州にあった智積院」が
秀吉の息子「鶴松」を菩提の為に建てられた
「祥雲寺」に来た理由とは
秀吉が没し、天下が家康のものとなった事によります。
徳川家康は日頃から帰依していた智積院住職へ土地を寄進。
その土地というのが祥雲寺だったんですね~。
秀吉の手で焼き払ったお寺が
まさか、自分の息子を弔う為に建てたお寺の場所に
建てられたんですから
秀吉からするとなんとも複雑な心境でしょうね~(汗)
そんな智積院の場所はコチラ↓
大きな地図で見る