2010-05-24 | |
テーマ:神社 |
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八大神社
京都は日曜日、大雨で
一日中、家に閉じこもっていた京子です。(汗)
家の中で何をしていたかというと
最近、歴史の教科書を買いなおして読んでいるのですが
私が習っていた頃と今では教科書の内容も変わっていたりして
驚きの連続です~
さて、本日は宮本武蔵で有名な神社
八大神社(はちだいじんじゃ)です
とにかくこの宮本武蔵という人物、大河ドラマにもなっていたり
小説や、マンガにもなっていますが
確かな文献が少なく諸説が飛び交う最も創作されやすい人物それが宮本武蔵!
そんな今日は
「二天一流の剣豪!宮本武蔵」の世界へ
少し足を踏み入れてみたいと思います
八大神社はもう山の麓。
大きな鳥居をくぐると、木々の香りと涼しげな風が京子を出迎えてくれます
そのまま坂道を登る途中には
宮本武蔵を取り扱った映画で描かれたあの名シーンのパネルが貼り出されていました。
はい、そうなんです。
ん?宮本武蔵の名シーン?巌流島の事?
違います!
そう、この映画や小説などでも描かれている名シーンとは
一乗寺下り松
(いちじょうじさがりまつ)の決闘!
宮本武蔵が吉岡道場の数十人、数百人とも言われる刺客との戦いを描いた場所なのです。
その戦いの前に、この八大神社に武蔵は立ち寄り
「勝たせたまえ。きょうこそは武蔵が一生の大事。」
と祈ろうとした瞬間・・・武蔵は、我に返り
「神仏を尊んで、神仏を恃まず」
つまり、神仏を尊ぶが頼りにはせずに、俺は吉岡一門と戦う!
と決意し、一乗寺下り松での戦いに臨みます。
本殿すぐ側には宮本武蔵像が!
ちなみに、一乗寺下り松の決闘の場所は本殿から鳥居を抜けて南に3分ほどあるいた場所にあります。道路の脇に聳え立つ見事な松。ちなみにこれは4代目の松だそうです。
そして、初代の松はというと
先ほどの八大神社に保管されています。
近くでみるとかなりの年輪と生命力を感じます(汗)
さて、この一乗寺下り松の決闘ですが歴史上に残る資料から見るといくつかの疑問が残ります。
例えば、宮本武蔵の弟子「伊織」が書いた「小倉碑文」によると「吉岡道場数百名を倒した!」と書いてあるかと思えば福住道祐による「吉岡伝」で登場する宮本武蔵とそんな戦いなどの記載も無く、また、「小倉碑文」で描かれている吉岡道場の登場人物とも全く異なっています。
他にも「本朝武芸小伝」「兵法大祖武州玄信公伝来」「武公伝」「古老茶話」においても様々な諸説がありこの戦いの様子を決定付ける決め手となるものはないそうです。
ですが、その未知の部分が歴史の創作という点では面白く、描き甲斐があるともいえますね♪
八大神社の絵馬にもなっている武蔵。
佐々木小次郎との決闘、巌流島の戦いにおいてもお互い一人で行った!という説もあれば武蔵は弟子を連れて行った!という説、その時の武蔵の年齢も様々で、一説には18歳!一説には29歳!と数々の資料で食い違いが見られます。
そして、その戦いで武蔵の残した有名な言葉
「小次郎敗れたり!」
武蔵は何でも武器にしちゃう戦いのスペシャリスト。
木刀で生き抜いたサバイバルな精神の持ち主でもありますが
武蔵を目の前にした小次郎は、刀を抜き鞘を置いたその時、武蔵は鞘さえも武器に出来ない小次郎を見て言い放った言葉とされています。
ですが、武蔵が勝ったのにも関わらず
佐々木小次郎の号である「巌流」からその島の名前が取られています。
本当に、勝ったのはどっち?と首をかしげる点も。
うーん、宮本武蔵・・・謎多き人物(汗)
武蔵は剣以外にも、後期は画家としても作品を残していて
「枯木鳴鵙図」や「芦雁図」など、剣豪とは全く別の顔もあり
「五輪書」という兵法書を書き残して多岐に渡り多くの謎と多くの顔を
持っていた人物だったんですね~
さて、八大神社側、一乗寺下り松の隣にはもうひとつのお話があり
「大楠公戦陣跡」として石碑が建っています。
これは
後醍醐天皇の勅使を受け、楠木正成が足利氏討伐に向かう際に
ここに陣取ったといわれています。
勝てない戦でも立ち向かう「七生報国」(七度、人と生まれて逆賊を破る)という言葉は
尊王派の長州藩の合言葉にもなったそうです
そんな宮本武蔵まつわる八大神社の場所はコチラ↓
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