本日ご紹介するのは
京都市左京区にある
積善院(せきぜんいん・しゃくぜんいん)です!
積善院の西隣には聖護院(しょうごいん)
南には須賀神社(すがじんじゃ)があるんですよ。
※聖護院について詳しくは、高祖報恩大会 2012(聖護院)の記事をご覧ください。
そして積善院には
あるお地蔵さんが安置されています。
そのお地蔵さんの名前はと言いますと・・・
『人食い地蔵(ひとくいじぞう)』
と呼ばれているんですよ!
なんとも怖い名前ですよね
人食い地蔵については
また後ほどご説明するとしまして
まずは積善院について
簡単にご紹介しますね
積善院は聖護院門跡の塔頭として
鎌倉時代の初期に建てられたんだそうで
昔は『栴ノ坊(なぎのぼう)』と
称していたそうです。
そして積善院は
聖護院が地方の山伏(やまぶし)に対して行う事務を
代行してきたお寺と言われています。
ちなみに山伏とは
山に籠もって厳しい修行を積み
『験(しるし・一種の霊力?)』を身につける
修行をしている人の事なんですよ。
聖護院は、そういった山伏を
統括していたんだそうです
積善院は明治になると
今の熊野神社交差点の南東角にあった
準提堂(じゅんていどう)と合併して
大正3年にこの地に移ってきたんだそうです。
その事から積善院は
積善院準提堂(せきぜんいんじゅんていどう)
とも呼ばれたりするんですね~♪
では早速、中に入っていきましょう。
山門をくぐるとすぐに
本堂である準提堂があります。
こちらの準提堂には
ご本尊の準提観世音菩薩像と
積善院の以前のご本尊である不動明王像が
安置されています。
そしてこちらは準提堂の西側にある
元積善院本堂です。
こちらには役行者像と阿弥陀如来像などが
安置されているんだそうですよ。
さて冒頭でもお話した
『人食い地蔵』がこちらになります
『崇徳院地蔵』です。
それにしても・・・
すごいネーミングですよね
名前だけ聞くと
かつて人を喰らい
口の中は食べやすいように
牙が生えていそうな姿のお地蔵さんを
想像するかも知れませんけれど
全然そんな事はないんですよ~
それもそのはず!
このお地蔵さんの名前は
『崇徳院地蔵(すとくいんじぞう)』と
言うんです♪
え?
じゃあなんで人食い地蔵に・・・
と思っている方のためにご説明しますと
ようするに崇徳院地蔵、崇徳院地蔵・・・と
何度も呼んでいるうちに
すといくいん、ひとくいん、ひとくい・・・
人食い地蔵!!!
と訛ってしまったんだろうと言われているんです
恐ろしい訛り方ですよね。
年配の方からバチ当たり!
と怒られそうな気がするんですけれど
当時はそうでもなかったのでしょうか
ちなみに崇徳院とは
1156年の保元の乱(ほうげんのらん)で敗れてしまった
崇徳上皇(すとくじょうこう・第75代天皇)の事なんです。
※保元の乱について詳しくは、高松神明神社の記事をご覧ください。
崇徳上皇は戦に敗れた後
讃岐国(さぬきのくに・現在の香川県)に島流し(幽閉)され
憤死したと伝わっているんですね。
そんな崇徳上皇の霊を
慰めるために建立したのが
崇徳院粟田宮(すとくいんあわたのみや)と言われています。
その後、崇徳院粟田宮は衰退するんですけれど
石仏だけが残り、崇徳院地蔵として
現在、積善院にあるというわけなんです
本当に人を食べるお地蔵さんだったら
お参りも出来ず大変ですよね。
そしてこちらは崇徳院地蔵の前にある
お俊・伝兵衛(おしゅん・でんべえ)の供養塔
『お俊伝兵衛恋情塚(おしゅんでんべえれんじょうつか)』です。
かつてこの辺りには
聖護院の森があったそうで
呉服商だった伝兵衛(井筒屋伝兵衛)は
恋敵である官左衛門を殺してしまい
先斗町近江屋の遊女であるお俊と
心中をします
そんな2人のために
1952年に義太夫節(ぎだゆうぶし)の名人である
豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)や
歌舞伎役者の中村雁次郎(なかむらがんじろう)
片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)らの発起によって
供養塔が建てられたんだそうですよ。
ちなみにお俊・伝兵衛のお話は
浄瑠璃『近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)』や
歌舞伎『身替りお俊』などの題材にもなっています
また積善院では毎年2月の23日に
五大力尊法要(ごだいりきそんほうよう)が行われ
本堂内ではその日に限って
五大力尊の掛け軸が公開されるので
ご興味のある方は
今年足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
※詳しくは、五大力尊法要 2013(積善院準提堂)の記事をご覧ください。
そんな積善院の場所はコチラ↓
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