今回ご紹介するのは・・・
日吉神社です
『日吉』という名前を聞いただけでピーン!ときた人は、さすがですっ。
この神社は、滋賀県大津市にある
『日吉大社』と大変ゆかりの深い神社で
分社の1つとされています
※日吉大社は全国に約3,800社ある日吉社の総本社です。新日吉神宮(いまひえじんぐう)や山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)も、日吉大社より分社された神社の1つです。山王宮日吉神社については宮津祭(山王宮日吉神社)の記事をご覧下さい。
ちなみに、同名の神社が京都には2つありまして
今回ご紹介するのは下京区にある日吉神社になります
※もう1つの日吉神社は左京区にあります。
門を入ると、鳥居と拝殿、そして本殿が一列に並んでいます。
さて、日吉神社の起源についてご説明しますと
建てられたのは平安時代後期で
きっかけは比叡山延暦寺の僧兵(ぞうへい・僧侶の姿をした武士)が起こした強訴(ごうそ)です!
強訴とは
神様の名前を語り、強引にお願いするもので
朝廷や貴族に不満を持った僧兵は
日吉大社の神輿を担いで上洛し、御所にて強訴したんですね
※日吉大社は延暦寺の出来る以前から比叡山の地主神(山の神様)を祀っている神社です。
朝廷側も、神霊が乗る神輿ですから
ぞんざいに扱う事が出来なかったようです。
時の権力者であった白河上皇も
この強訴には手を焼いていたようで
天下三不如意(てんかさんふにょい・白河上皇でもどうする事も出来なかった3つの事)
『賀茂河の水、双六の賽、山法師』の山法師とは
この僧兵による強訴の事だと言われています
※こうした強訴は平安時代から室町時代ごろまで100回以上も行われていたそうですよ。強訴について詳しくは、日吉大社 東本宮神輿 神楽奉納(平安神宮)の記事をご覧下さい。
先ほどもご説明したように
日吉神社が出来るきっかけとなったのが、この強訴で
僧兵が日吉大社より持ってきた神輿を
この地(京都市下京区・当時は一帯に森が広がっていたようです。)に
置いて帰った事から、その後
日吉大社より三柱を勧請し、社殿が建てられました
では、祭神についてもご紹介します。
・大己貴命(おおなむちのみこと)
これは大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名です。
国譲りの神として知られる神様で
七福神の1人『大黒天』とも同一視されている神様です。
※大国主命について、詳しくは出雲大神宮の記事をご覧下さい。
・大山咋命(おおやまくいのみこと)
松尾大社の祭神としても知られる神様で
山の神として、古来より崇められています
『咋』とは『杭(くい)』の事であり
大山咋命という名前は『山に杭を打つ神様(つまり山の所有者)』を
意味していると言われているんですよ。
・玉依姫命 荒魂(たまよりひめのみこと あらみたま)
玉依姫命は、初代天皇である『神武天皇(じんむてんのう)』の母親とされる神様で
彼女の荒魂が祀られています。
※荒魂とは、荒ぶる魂の事で、これと対をなすのが和魂(にぎみたま・穏やかな魂)とされています。
ちなみに、玉依姫命は神武天皇以外にも
上賀茂神社の祭神である 『賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)』を
生んだ事でも知られていますが
そのきかっけは、1本の丹塗矢(にぬりや)を持ち帰った事で
身ごもったと言われています。
しかも、その丹塗矢は・・・大山咋命の化身だと言われているんですね
こうして祀られている神々の関連性が
分かると面白いですよね~
※丹塗矢にまつわるお話は上賀茂神社 その3の記事をご覧下さい。
こうして、祭神が祀られ日吉神社が誕生し
この地を日吉大社の別名・山王宮から名前を取り
山王町と呼ぶようになりました。
※現在も町名として残っているんですよっ
こちらは境内末社にある三ツ森稲荷です。
以後、日吉大社との関連性は深く
4月に日吉大社で行われる山王祭では
日吉神社から毎年、お供え物が献上されていたそうです。
という事で、今回は日吉神社をご紹介しました
場所はコチラ↓