こんにちは、京子です。
さて♪本日ご紹介するお寺は・・・
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
写真でおわかりの通り、境内には約8000体もの石仏・石塔がある事で有名なお寺です。
では、どうしてこんなにあるのか?というのをまずはご説明したいと思います
『化野(あだしの)』というのは、ちょうどこのあたりの地名です。
では、かつてこの化野はどんな場所だったかと言うと
葬地でした。
以前もお話しましたけれど
京都の地名で『○○野』とつく場所はかつて葬地だった場所が多いんです。
※例えばどういったものがあるのかと言うと、鳥辺野(とりべの)、紫野(むらさきの)、蓮台野(れんだいの)などなど。
今でこそ、日本では遺体は火葬をするのが一般的ですけど
その昔は・・・野ざらし(風葬)だったんですね。
つまり、この化野にも、今から1200年ほど前には
沢山の死体の山がありました
そこで登場するのが・・・弘法大師『空海(くうかい)』
※空海は平安時代の名僧であり、804年には遣唐使として日本から船で入唐もしています。詳しくは『東寺(教王護国寺)』の記事をご覧下さい。
無残な死体の山を見かねた空海は、多くの死体を土に埋葬し
この地に五智山如来寺(ごちざんにょらいじ)を建て無縁仏を供養したのが
化野念仏寺の始まりと言われています。
後に、鎌倉時代のお坊さん『法然(ほうねん)』の念仏道場となり
名前が念仏寺へとなったというワケなんですね~。
※法然に関しては『法然院 その2』の記事をご覧下さい。
こちらの階段から中へと入って行きます♪
木漏れ日の中を歩く京子♪じつは、この化野念仏寺は、紅葉の名所としても知られているんですよ♪
仏舎利塔(ぶっしゃりとう)です。仏舎利とは釈迦の遺骨や棺です。
約8000体もの石仏・石塔は、明治期になってから
化野に散乱、埋没していたものを掘り出し境内へ移されました。
この地を流れる曼荼羅川(まんだらがわ)があった事や
多く積み上げられた石の様子から
この石仏の集合を『西院の河原(さいのかわら)』と呼んでいます。
※西院の河原については『西院春日神社』の記事をご覧下さい。
8月の23日・24日には、この西院の河原では無数のローソクを立て
供養する『千灯供養(せんとうくよう)』も行われます。
お寺に鳥居?と思いましたけど、こちらは『トラナ』。インドの仏教寺院によく見られる門なんです。
こちらは西院の河原近くにありました。よく見ると頭の上にもうひとり、小さなお釈迦様がいらっしゃいました。
鐘楼もパシャリ♪
さてさて~。
奥に見えますのは、ご本尊の阿弥陀如来。
作者は、鎌倉時代の仏師である堪慶(たんけい)♪
あの、奈良・東大寺の東大寺金剛力士像を作った運慶(うんけい)の息子さんですよ。
ちなみに彼は、三十三間堂の千手観音坐像なども手がけています。
ご本尊を拝んだ後は『竹林の小径』を歩きます。
この先は、霊園墓地になっているんですけど
そこにあるのは・・・
『六面六体地蔵尊』
仏教において死が訪れ、輪廻転生した際に行き着く6つの世界(六道)
その世界にいらっしゃる6体のお地蔵様です。
ちなみに、どんな世界なの?と言うと
天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道 (じごくどう)
なんですよ~
さて、そんな化野という場所は
三大随筆のひとつである吉田兼好の徒然草の中にも出てきます。
※随筆とはちなみに今で言うエッセイのようなものです。
『あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。』
これは、あだし野や鳥部山(鳥辺野の山)の葬地に関する一行ですけれど
訳すると・・・
あだし野から、涙が無くなる事も、鳥部山から火葬の煙が無くなる事もない。
もしも命が、この涙や煙のように無くならない永遠のものであれば逆に面白くない。
と残しているんですね。
この事から、
『化野の露』とは、人生の無常(常に移ろいゆくもの)を表す枕詞として使われていたり
『あだし』という言葉にも、虚しい・儚いなどの意味があるんですよ♪
そんな化野念仏寺の場所はコチラ↓
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