2010-12-20 | |
テーマ:お寺 |
関連:通し矢 2011(三十三間堂) / 通し矢 2012(三十三間堂) / 御火焚き祭(三十三間堂) / 通し矢(三十三間堂) / 通し矢 2014(三十三間堂) / 春桃会(ももの法会)(三十三間堂) / |
三十三間堂
こんにちは京子です
さて、本日は
再来年
2012年の大河ドラマ
主人公にも決定している「平清盛」
が建てたお寺として大変有名である・・・
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)ですっ
正式名称は蓮華王院(れんげおういん)と言うんですね。
ちなみに、どーして三十三間堂っていうの
と言いますと、冒頭の写真にあるように
この長ーーーーーい本堂の柱間(はしらま・柱と柱の間)が
33あるからなんですね。
まずはっ
こま札です
こちらで、後白河法皇が院政をしていた場所であり
その場所を平清盛が寄進したというワケなんですね。
ちなみに院政とは
天皇に代わり、元天皇(太上天皇=上皇)が政治を取る事を院政と言います。すなわち、実質は院政を行っている人が、この時の一番権力者であるという事なんですね♪
※上皇が出家すると法皇という称号になります。
さて、さて
いよいよ拝観受付を通って
見えて来たのが・・・・
(・∀・)ノもうおわかりですよね。
南北に118メートルも伸びる、巨大な伽藍が目印の
本堂(三十三間堂)ですよね
そして、この中にあるのが・・・
1001体もの十一面千手千眼観音像(じゅういちめんせんじゅせんげんかんのんぞう)
もぅ・・・京子・・・圧巻です。
通常、どんなお寺でも観音様は数体あればいい方ですけど
それが・・
1001体ですよ
しかも一体、一体がとても大きいし立派!
( ´Д`)どう考えても圧巻ですよ。
それに加え、国宝である木造千手観音坐像に風神・雷神像
そして二十八部衆像(28体の仏像)もあり
・・・もう118メートルにも及ぶ伽藍の中は
仏像のオンパレードです。
残念ながら撮影禁止でしたし、是非これは生で見て頂きたいと思います
それにしても
こんなに見事なお堂を寄進しちゃった
平清盛という人ってどんな人なのでしょう
彼を一言で言いますと・・・
(・∀・)ノ武士で初めて太政大臣になった人なんですね
え?それすごい事なの?
と思われる方もいらっしゃると思いますけど
この時代のちょっと前までは
・・・武士といえば護衛扱い!!
そうなんです、政(まつりごと)に武士は必要なく
あくまで公家を守る為の護衛だったんですね。
境内、本堂の前には池も!!
こちらは写経奉納塔と言います。
公家は殿上人(てんじょうびと)と呼ばれ
清涼殿の殿上の間(ま)に昇る事(昇殿)を武士は許されなかったんです。
そんな時代に始めて昇殿を許されたのが、平清盛のお父さんである
平忠盛(たいらのただもり)でした
白河上皇の院政期において功績が認められ昇殿を許されました。しかし、武士なんかが昇殿したもんだから周りの公家からは疎まれ、肩身の狭い思いをしたようです(泣)
そんな父親の背中を見て育った平清盛。
彼も父親同様に昇殿を許されます。
清盛「俺も同じように肩身の狭い思いをしながら公家の人にペコペコしなきゃならないのか・・・」
と、思っていると・・・
ん?
なななーんと!
どんどん出世。
挙句、太政大臣にまで出世するんですねっ。
(・∀・)ノおぉ!!
え・・でも、どうして俺だけと、清盛は思ったでしょう。
そうなんです。
まさにそこには
裏の事情が存在していたのです
墓石には南無阿弥陀仏と書かれていました。
夜泣き封じのお地蔵さんである「夜泣地蔵」このお地蔵さまの前掛けを持ちかえり、子供の枕に敷けば夜泣きが治るそうですよ♪祈願を希望される方は三十三間堂でお尋ねくださいとの事です。
どーですか!この本堂(三十三間堂)のどーんとした見事な伽藍。木造建築では世界一の長さなんですよ~っ。
実は・・・
清盛の本当の父親は白河上皇だったと言われています。
清盛は思います。
俺が、お父さんだと思っていたのは本当の父親ではなくじつは白河上皇がお父さん!?
だから俺は出世したのか!?
もちろん、周りの公家達には彼が白河上皇の子供という事は
分かっていたと言われています。
彼は複雑な思いを抱いていたでしょう・・・。
しかし、育ての父親という事になる平忠盛から
「お前が平家を継ぐんだ、頼んだぞ!」と他にも息子がいたにも関わらず任命してくれた事によって、清盛は決意します。
よし!平家の人間として俺は出世してやるんだっ。
それから清盛は
自分達の子供を
どんどん朝廷へと押し上げていくんですね
平家の人間達が公家と肩を並べる世界を作っていったのです。
「平家にあらずんば人にあらず」
平家一族は栄華を極め絶頂を向かえようとしていました。
※清盛は1158年には中国の宋朝(南宋)と日宋貿易(にっそうぼうえき)を行います。人工港を博多に築き貿易を本格化させる事に成功。以後鎌倉時代にも引き継がれました。
こちらは朱色が見事な鐘楼です。
豊臣秀吉は後白河院法皇や清盛の栄華にあやかり「大仏殿方広寺」を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも
その境内に取り込んで土塀を築いたそうで、その遺構がこの太閤塀です。
こちらの南大門は境内から少し離れた位置にあります。♪創建時は400m四方の広大な境内だったそうですね。
しかし、そんな考えとは裏腹に
清盛の息子たちは、公家の世界に甘んじて蹴鞠に興じ、化粧をし・・・武士の心を忘れてしまった平家の息子たちが出来上がったんですね。
清盛にしてみれば、腑抜けた息子達に映ったのでしょう。
このままじゃぁ平家はダメになるぞ・・・
危機感があったのかもしれません
そんな中、起こってしまったのが
1177年
鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です
平家打倒の陰謀事件なんですね。
これには院政を行っていた後白河法皇がバックで操っていたと言われているんですね
その事実を知り、清盛は激怒
もう、「後白河法皇を幽閉するぞ!」と、牙を向くんですね。
しかし「お父さん、さすがに。。それしちゃさすがにマズいよ。。やめて!」と
息子による説得のおかげで、なんとか形上は丸く収まります。
この翌年には、そんな怒りまくっていた清盛を喜ばせる話題が
清盛の娘が、高倉天皇との間に孫である「安徳天皇(あんとくてんのう)」誕生するんですね~っ。
やっと、天皇家との血が繋がった平家の子孫を作る事が出来ました。
さて、ここで三十三間堂にお話を戻しまして
こちらは・・・・
本堂の裏側になるんですけど
この場所で毎年、1月中旬に全国から弓道者が集まり
行われているのが
「通し矢」と呼ばれるガチンコ試合っ。
2000人以上が参加するそうですよ!!すんごい。。詳細は『通し矢 2011(三十三間堂)』の記事をご覧下さい。
「三十三間堂の通し矢」は歴史あるもので室町時代には
すでに当時の様子が洛中洛外図に描かれていたそうです。
ちなみに歴代の記録をちょっと見てみますと・・・
昔はルールが違ったようで
「大矢数(おおやかず)」という人気競技では
制限24時間の間に、廊下の端から端まで何本の矢を射通せるかという競技でした。
1656年、紀州の吉見台右衛門が6343本
1660年、尾州の星野勘左衛門が6666本を通して「天下一」を名乗ります。
1668年、紀州 葛西園右衛門が7077本
1669年、尾州の星野勘左衛門が8000本で返り咲き!
1686年、紀州の和佐大八郎は8133本で不朽の大記録を打ち立てたそうです。
昔は南から北へ矢が撃たれこちらの鉄板は、雨あられと飛び来る矢からお堂を守る為に徳川三代将軍「家光」が付けたそうですよ。
24時間打ちっぱなしなのか
どうなのかわかりませんけれど
昔の人は何をやってもスゴいです
多いと、10000本を24時間以内で撃つそうです。
肩と腕がボロボロになっちゃいそうですよね~
耐震構造を持つ本堂は、地震が起こればお堂が大きく揺れて衝撃を吸収するような土台や骨組みが採用されています。ちなみに本堂の堂内(撮影は出来ませんでしたけれど)の屋台骨部分には、柱間を2本の梁で繋ぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」になっています。
お堂の中の1000体以上の観音様が綺麗に見えるように、窓を開け光が取り込まれています。
こちらは東大門です、通常は閉ざされています。
さてさて、
孫の安徳天皇が生まれ、安堵するのも束の間・・・
その次にまたまた起こったのが
後白河法皇の息子である
以仁王(もちひとおう)が平家討伐を企てます!!
それが「以仁王の乱(1180年)」です。
平氏の横暴な政治に加え、以仁王の令旨(皇族の命令)が重なり
一気に平氏の敵が増えます。
その中には鵺退治でおなじみの源頼政(みなもとのよりまさ)もいました。
彼は平治の乱の時
※平治の乱とは簡単に言いますと源氏と平氏がどっちが強いのかを決める戦い
清盛留守を襲った源氏のやりように頼政は
「大義名分がない!」といい
平氏側についた源氏だったのです。
※そんな彼を清盛はおおいに信用し重用しました。
そんな彼までもが平氏の敵となってしまっていたんですね。
しかし、清盛は見事に圧勝
※ちなみに、それがきっかけで源頼朝なども、「俺も平氏に殺されるかもしれない」と挙兵しますし、関東の平氏や北条氏、足利氏もこの戦いには参戦してるんですね。
どんどん襲ってくる敵に対して
がんばってる清盛・・・
しかし、以仁王の乱の翌年
帰らぬ人となってしまうんですね。
享年64歳
原因は熱病で没したと言われています。
と、清盛の一生をサラっとご紹介しましたけど
再来年、2012年の大河ドラマも楽しみですね~
※ちなみに来年の大河の「江~姫たちの戦国~」もご紹介してますので併せてご覧ください★
そんな清盛の栄華に、後白河法皇に寄進された
三十三間堂の場所はコチラ↓
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