2014-04-18 | |
テーマ:史跡 |
二条城跡
今回ご紹介するのは
二条城跡です!
え二条城って今もあるんじゃないの~?
と思っちゃいますよね
実は、皆さんが普段
二条城と聞いて想像するのは
こちらの二条城だと思います。
でも実は・・・
二条城って時代の中でいろんな人によって
いくつも作られてきたんですよ~
ちなみに現在の二条城は
徳川家康が築城したものですよね。
※二条城について詳しくは、二条城 その1の記事をご覧下さい。
お寺や神社以外で
京都の世界遺産になっている
大変貴重なものなんです
そして今回ご紹介する
それ以前の二条城は
形として残っているものは無く
石碑や駒札などがあるのみで
その面影を見ることは出来ません。
でも
どういったもので誰が作ったのか
という事は文献などで知る事が出来ますよね
今日はそんな二条城をご紹介したいと思います。
①足利義輝の二条御所(斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址)
上京区椹木町通室町上る(平安女学院の敷地内)この地を武衛陣町といって、斯波氏の邸宅に因むものなんだそうですよ。
二条城と呼ばれた文献はないのですけれど
次にご紹介する足利義昭(あしかがよしあき)の二条城と同じ場所にあった事から
初代二条城の扱いとなっているんですね
作ったのは室町幕府第13代将軍である
足利義輝(あしかがよしてる)です。
斯波氏の屋敷跡に作られた事から
武衛陣(ぶえいじん)と呼ばれたそうですが
これは斯波氏の職名である
兵衛府(ひょうえふ)の唐名(からな・とうみょう)
『武衛』から取られているそうです
永禄2年から3年(1559~1560年)にかけて造られたもので
その後、1565年に起こる永禄の変で燃えてしまうんですね。
ちなみにその時、義輝は
塚原卜伝(つかはらぼくでん・剣術家)に学んだ兵法で
獅子奮迅の戦いぶりを見せたそうですよ。
しかし多勢に無勢で討ち死にとなりました。
上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)
室町幕府第15代将軍・足利義昭の将軍座所で
二条御所とも呼ばれたんですよ。
なんでも織田信長(おだのぶなが)が
足利義輝邸の跡地に70日間という
とてつもない早さで作ったと言われています
さすがは信長ですよね~
その内装は金銀が散りばめられて
大変豪華な城郭であったと
宣教師ルイス・フロイスの記録には残っているんですよ。
しかし!1573年に信長が義昭を畿内から追放すると
なんと取り壊されてしまうんですね。
もったいない~
京都御苑の椹木口(さわらぎぐち・南西)に再現された旧二条城の石垣
こちらは京都御苑内に再現されている
二条城の石垣跡です。
京都市営地下鉄を作るときに
発掘されたそうですよ
ちなみに現在の二条城の中にも
旧二条城の石垣が再現されています。
③織田信長の二条新造、誠仁親王の二条新御所
織田信長がもともとあった建物を
大きく改修して作ったお城です。
現在の烏丸御池あたりにあったと言われています。
改修工事が全て終わった頃
誠仁親王(さねひとしんのう)に献上して
二条新御所となったそうですよ
④豊臣秀吉の二条新邸(豊臣秀吉妙顕寺城跡)
中京区押小路通小川西入北側
こちらは豊臣秀吉が作った二条新邸です。
京都の拠点として
妙顕寺(みょうけんじ)を移転させて造ったので
妙顕寺城とも呼ばれたんですね。
聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい・秀吉の政庁兼住宅)が出来るまでは
政庁として使われていたそうですよ
※その後は、京都所司代の邸宅になったみたいです。
ちなみに、この辺りの地名は
古城町(ふるしろちょう)というそうで
お城があったことがわかりますよね♪
4箇所の二条城跡をご紹介してきましたけれど
二条城は今までもいろいろな人によって
造られていて、時代によって
指している二条城が違うんですね~
少し知識に深みを増していただけたと思います
今日からは
時代によって指している二条城の違いが
わかっていただけたと思うので
文献や資料で見つけた時は
ぜひともニヤリとしながら読んで下さいね。
二条城におこしの際は
二条城跡も近くですので
一緒に巡ってみてはいかがでしょうか
という事で今回はいろいろな二条城跡をご紹介しました。
詳しい場所はコチラ↓
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