2010-11-30 | |
テーマ:神社 |
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護王神社 その2
こんにちは京子です!
さて本日も紅葉の名所をご紹介いたしましょう~♪
境内の大イチョウが有名な
護王神社(ごおうじんじゃ)です。
別名、いのしし神社と言います
実は京子がブログを始めて早々に
一度、護王神社をご紹介していますし
11月1日には亥子祭でもこちらにお邪魔しました
そして今回は、「紅葉バージョン」という事で
改めて護王神社の魅力についてご紹介させていただきますね~っ。
さて、ではここで
護王神社についておさらいしたいと思います
そもそも、どうして「いのしし神社」と言われるようになったか?
というと・・・
この護王神社の主催神である
和気清麻呂(わけのきよまろ)が関係しているんですね
境内の紅葉をバックに和気清麻呂像をパシャリ!してみました♪
「猪」と「和気清麻呂」の関係をお伝えする前に
お話しておきたいのが・・・
宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)
これはどんな事件だったかというと
称徳天皇(しょうとくてんのう)という女帝時代。
彼女はお気に入りだった
お坊さんである弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を
なんと、次の天皇にしようとしたんですね
彼女は家臣たちに
「弓削道鏡を天皇にしろとお告げがあったのじゃ~!」と言ったのです。
しかも・・・
「宇佐八幡宮での神のお告げがあったのじゃ!」と続け
和気清麻呂の姉である、和気広虫(わけのひろむし)に
宇佐八幡宮まで言って聞きてこい!と指示します。
しかし、和気広虫は女性であり、宇佐八幡宮(大分県)までも距離がある事から
弟である和気清麻呂にその大役を任せます
石の輪をクルクルと回せます、回しながら願い事をするんですね。
「忠烈」の額です。戦時中には護王神社の御分霊が旧日本海軍の軍艦「高雄」に祀られました。高雄は御祭神の御加護によって武運に恵まれ、沈没することなく、その任務を全うし帰って来たんですね。
さて帰ってきた和気清麻呂は
称徳天皇に報告します。
「古来より、天皇というのは天皇家からしか出ていません。それは今後もそうです」
その報告を受けた弓削道鏡と称徳天皇は
・・・激怒!!
つまり、和気清麻呂は天皇家の血筋以外から
天皇を出す事を拒み、跳ね除けたってコトなんです。
もちろん、称徳天皇に歯向うコトを承知でっ。
和気清麻呂は
一言でいうと天皇家を守った英雄って事です
目を覚まして下さい称徳天皇ーっ!と叫んだワケです。
(・∀・)ノうーん、すごい勇気ありますね、和気清麻呂。
しかし、そんな事を言っちゃったもんだから
和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて
和気広虫は狭虫(せまむし)と改名させられて
島に流されています。(汗)
その時、恨みを持つ道鏡が送り込んだ刺客により和気清麻呂は足を怪我してしまうんです
しかーーーし
その後、称徳天皇が崩御した事によって弓削道教は失脚し、
見事、和気清麻呂は政界に復帰し
天皇家を救った英雄として返り咲くんです!
カッコイイ、和気清麻呂!
ちなみに宇佐八幡宮神託事件に関して、詳しくは神護寺で
お話させていただいていますのでよければそちらもご覧下さい★
さて、お待たせしました。
そこで、この和気清麻呂は猪とどんな関係があるのかと言うと
弓削道鏡の野望を阻止出来た事をお礼する為に
再び宇佐八幡へ向かっていた和気清麻呂は
しかーし、その時・・・
どこからともなく300頭もの猪が現れ
清麻呂を守りながら、宇佐八幡までの長いの道のりを案内し
なおかつ
その間に弓削道教によって怪我させられた足もすっかり良くなっていたんだそうです!
(・∀・)ノダブルでハッピー!
このような伝説があって護王神社では「狛犬」でなく「狛猪」を置くようになったんですね。
護王神社のご利益として
「足腰の健康・病気怪我回復」は
イノシシの守護によって足が治ったという言い伝えから来ていると
いう事なんです。
さて、でも和気清麻呂が天皇になる事を阻止した
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)って
一体どんな人物なのでしょうか
称徳天皇に取り入り
権力を握り太政大臣禅師にまで上り詰め、天皇にまでなろうとした
弓削道鏡は・・・
「物部氏(もののべし)」という一族の末裔なんですね
この物部氏というのがポイントですのよっ♪
時代は遡り
538年に仏教が伝来。
当時、百済とは同名国であった日本は
百済の聖明王(せいめいおう)の使いで訪れた使者が
欽明天皇(きんめいてんのう)に
釈迦如来像や経典、仏具などを献上した事が仏教の始まりなんです。
こちらは「座立亥串(くらたていぐし)」と言い、自分の名前と願い事を書いた紙を竹串に挟んで願かけをします。2本一組になっていて1本は家に持ち帰って玄関や神棚に祀るんですね。
裁縫針の供養塔である「針乃碑」です。
さて、突然こんなモノをもらっちゃったものだから
欽明天皇も困ります
「うーん・・どうしたらいいと思う??」
と、そこで仏教の扱いについて相談をした家臣たちが
「物部氏(もののべし)」「蘇我氏(そがし)」だったんですね。
物部氏は
新たに伝来した仏教の受容には否定的でした。
しかし
蘇我氏は
「やってみます!仏教ってのいいですよきっと!」
と意見は対立しちゃうんですね。
・・・ん
でも、弓削道鏡の先祖は物部氏で
仏教に否定的なのにお坊さんになっちゃったのー!?
でも、まさにその否定していた仏教により
追い込まれた物部氏なのに
弓削道鏡はその仏教を取り込む事によって表舞台に登場したんですね
舞殿にはもうすでに来年の干支飾られています!
紅葉もいいですけどイチョウの色も素敵ですね♪シーズンを少し過ぎて少し葉が落ちてしまったのが残念(汗)
仏教伝来以降
蘇我氏と物部氏は権力闘争に入り
結果的に蘇我氏に軍配があがります。
物部氏は名を改めます、そしてその末裔が
弓削道鏡だったんですね。
ちなみに、
物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すものであり
大和朝廷に於いて武器を扱い管理する部民でした。
そして
弓削(ゆげ)は
弓を製作する弓削部を統率した氏族という語源があります。
つまり、武器を使う事に長ける部族であった事は明白ですよね。
じゃあそんな武器マスターの俺らが
蘇我氏に負けた理由はなんだ・・・
蘇我氏にあって、俺らにないもの・・・
それはつまり
仏教しかないじゃないかーーー
ってなワケだったのかもしれませんね。
なので、仏教も身につけたら無敵だろっ。
というので弓削道鏡なる人物が出て来たのでは!?
うーん、こうやって紐解くと
歴史ってやっぱり面白いですよねー
そんな護王神社の場所はコチラ↓
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