2010-11-16 | |
テーマ:お寺 |
関連:永観堂(禅林寺)の紅葉 / |
永観堂(禅林寺)
こんにちは京子です。
突然ですけど・・・・
(・∀・)ノみなさんっ!もうシーズン到来ですよ!
そうです。
京都紅葉シーズン、いよいよ到来っ。
と、いう事で本日は
京都東山でも屈指の紅葉の名所として知られる
永観堂(えいかんどう)で~す
紅葉の永観堂と言われる程、紅葉といえばココです。
永観堂は通称で、正式名称は「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)と言います。
さて、という事でこの永観堂は通称なんですけど
どうしてこの名前がついたの??と言いますと・・・
7代目法主(住職)である
永観(ようかん)というお坊さん
なのですね~。
永観から永観堂という通称がついたのです。
※呼び方はようかんからえいかんどうへと変わったようです。
そんな永観については後ほどお話させて頂きます
さて、さっそく紅葉紅葉~っ
と総門をくぐると見えて来たのが
中門(ちゅうもん)です。
ほんのりと紅葉してきているのが分かるでしょうか??
そして、この中門の脇にいるのが
2匹の狛犬さんっ
こちらが向かって左側の狛犬さんっ
そしてこちらは向かって右側の狛犬さん~!
なかなか風格のある2匹の狛犬の先に見えるのは・・・
唐門(からもん)
天皇の使いが出入りする時に使われていた勅使門ですので
もちろん現在は閉じられておりますっ。
と、いう事でその左手にあります・・・
大玄関っ。
ここから靴を脱いでどんどん中へと入っていきますよ~
さて、こちらの永観堂の始まりは
855年、空海の弟子である
真紹(しんしょう)というお坊さんが
平安初期の文人、藤原関雄(ふじわらのせきお)の山荘を
寺院としたのが始まりなんですね。
実は、その山荘の頃から
この場所は紅葉の名所として評判だったようです
藤原関雄の歌で
「おく山の 岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」
とこの場所から見る紅葉を歌った名句が残っている程なんですね~。
ではでは、大玄関から中に入ると
丁度、唐門をくぐったところに位置するのが
盛り砂です。
奥に見えているのが唐門ですねっ。
唐門を通り、やってきた天皇からの使いの人が
この盛り砂を踏んで清めてもらい、この先にある釈迦堂から中へ
入る事になっていたようですね
と、いう事でこの唐門の先の釈迦堂にある有名なお釈迦様というのが
永観堂のご本尊である・・・
「みかえり阿弥陀」
(・∀・)ノなんてチャーミングな名前なんでしょう
こちらのみかえり阿弥陀は立像なんですけど
体は正面に向けて
顔を左側に向けたとっても変わった立ち姿なんです
でもでも、どうして後ろを振り返るように
立っていらっしゃるのでしょう?
と、ここで再び登場するのが永観堂の
7代目法主(住職)である永観です~。
盛り砂の側に立っている石燈籠。
彼はここの住職になる前は、奈良の東大寺にいたんですね。
そこに、もともと「みかえり阿弥陀」があったんです♪
でも、その頃はみかえりじゃなくて、普通の阿弥陀像でした。
では、いつこの阿弥陀像が振り返ったのかというと
それは東大寺から、永観が阿弥陀像を背中に乗せて、こちらの永観堂にやって来てからです。
1082年2月15日
永観、50歳の頃
早朝、阿弥陀堂で修行をしていた永観。
この阿弥陀像の周りを念仏して行道していたそうです。
すると、突然・・
阿弥陀像が壇を下り永観を先導し行道を始めちゃったのです
驚き立ち尽くす永観。
この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り
「・・・永観、遅し」
と伝えたのです。
永観の方を振り返り、少し口を開いた阿弥陀像・・
それが「みかえり阿弥陀」という姿になったというワケだったのです。
こちらが、その阿弥陀堂です。
では、どんどん進んで行きましょう~
はい、こちらは釈迦堂(方丈)です。
中には「松鳥図」や「群仙図」と言われる襖絵が飾られていますっ!
御影堂です。
紅葉シーズンが始まり、参拝者の方も多いですね~っ。
一旦建物を出まして次に京子が目指したのは
放生池(ほうじょうち)という大きな池~!
さて、ここで
京子の永観堂紅葉ポイント1
それがこの放生池に移りこんだ楓っ。
そしてそして、
京子の永観堂紅葉ポイント2
この放生池から見る多宝塔~っ。
いかかがでしょうか?
なかなか紅葉が見事ですよね~♪
約3000本の楓が永観堂には植えられています。
放生池周辺は紅葉ポイントなので
是非行かれた際はご覧くださいね~っ。
※ちなみに今月30日までは、夜の特別拝観もやっていらっしゃるそうですよ。
さて、この放生池には
与謝野晶子(よさのあきこ)が紅葉狩りに来た時に残した歌碑もありました♪
与謝野晶子は明治時代の歌人であり歌集「みだれ髪」は有名ですね。
そんな彼女の残した詩で印象的なのが
雑誌「明星」に掲載された
「君死にたもうことなかれ」ですよね~。
戦争に行く弟へ向かって反戦の感情を表わしたこの詩。
しかし、当時の世論はこの詩に関して否定的に捕らえていたのでした。
日清戦争後、三国干渉(フランス・ドイツ・ロシア)により
遼東半島を返還する事となり
ロシアに対する日本人の不満が高まっていたのでした。
いわゆる臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ですね。
今に見ていろロシアという思いでいたのです。
こちらは水琴窟。周りが静かであれば、綺麗に響く音が聞こえてくるそうです。
鐘楼は1703年、江戸時代のものです。
三鈷の松(さんこのまつ)は葉先が3つに分かれている珍しい松で「知慧」「慈悲」「まごころ」を表しています。
日本は、その後「日露戦争」へと発展していきます。
個人の幸せよりも、国益を願う人々が多くいました。
そんな日露戦争へ向かう弟に対し与謝野晶子が発表した詩が
「君死にたもうことなかれ」だったんですね。
そして、その詩の中の一説には
「死ぬのが名誉だとおだてて民を狩りだすのに、天皇は戦争に自ら出かけられない」
と天皇を否定的に書いていたものまでありました。
彼女は否定的な世論に対し
「どうして家族の無事を願う気持ちがいけない事なのでしょう?」
と言った人なんですね~。
それにより当時、多くの世論、特に女性に指示されたようです。
と、いう事で紅葉シーズンもいよいよ到来ですね。
京子も2010年、京都の秋を沢山レポートできればと思いますっ!
永観堂の魅力はこの他にもあるんですけど
本日はここまでということで
また機会があれば第2弾をご紹介したいと思いますっ
そんな永観堂の場所はコチラ↓
大きな地図で見る
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1 ■京子さーん
お久しぶりでーす。
相変わらず精力的だね!
永観が阿弥陀如来を背負ってきたのは東大寺だったような気がするけど…
匿名さん 2011-11-18 01:07:24
3 ■Re:京子さーん
>HONDAでしたさん
ご指摘有難うございま~すо(ж>▽<)y ☆
修正させて頂きました♪
アメブロじゃないんですよ~(;´▽`A``
アメブロから引っ越しちゃいました☆
京子 2011-11-18 17:20:23
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