こんにちは京子です。
突然ですけど・・・・
(・∀・)ノみなさんっ!もうシーズン到来ですよ!
そうです。
京都紅葉シーズン、いよいよ到来っ。
と、いう事で本日は
京都東山でも屈指の紅葉の名所として知られる
永観堂(えいかんどう)で~す
紅葉の永観堂と言われる程、紅葉といえばココです。
永観堂は通称で、正式名称は「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)と言います。
さて、という事でこの永観堂は通称なんですけど
どうしてこの名前がついたの??と言いますと・・・
7代目法主(住職)である
永観(ようかん)というお坊さん
なのですね~。
永観から永観堂という通称がついたのです。
※呼び方はようかんからえいかんどうへと変わったようです。
そんな永観については後ほどお話させて頂きます
さて、さっそく紅葉紅葉~っ
と総門をくぐると見えて来たのが
中門(ちゅうもん)です。
ほんのりと紅葉してきているのが分かるでしょうか??
そして、この中門の脇にいるのが
2匹の狛犬さんっ
こちらが向かって左側の狛犬さんっ
そしてこちらは向かって右側の狛犬さん~!
なかなか風格のある2匹の狛犬の先に見えるのは・・・
唐門(からもん)
天皇の使いが出入りする時に使われていた勅使門ですので
もちろん現在は閉じられておりますっ。
と、いう事でその左手にあります・・・
大玄関っ。
ここから靴を脱いでどんどん中へと入っていきますよ~
さて、こちらの永観堂の始まりは
855年、空海の弟子である
真紹(しんしょう)というお坊さんが
平安初期の文人、藤原関雄(ふじわらのせきお)の山荘を
寺院としたのが始まりなんですね。
実は、その山荘の頃から
この場所は紅葉の名所として評判だったようです
藤原関雄の歌で
「おく山の 岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」
とこの場所から見る紅葉を歌った名句が残っている程なんですね~。
ではでは、大玄関から中に入ると
丁度、唐門をくぐったところに位置するのが
盛り砂です。
奥に見えているのが唐門ですねっ。
唐門を通り、やってきた天皇からの使いの人が
この盛り砂を踏んで清めてもらい、この先にある釈迦堂から中へ
入る事になっていたようですね
と、いう事でこの唐門の先の釈迦堂にある有名なお釈迦様というのが
永観堂のご本尊である・・・
「みかえり阿弥陀」
(・∀・)ノなんてチャーミングな名前なんでしょう
こちらのみかえり阿弥陀は立像なんですけど
体は正面に向けて
顔を左側に向けたとっても変わった立ち姿なんです
でもでも、どうして後ろを振り返るように
立っていらっしゃるのでしょう?
と、ここで再び登場するのが永観堂の
7代目法主(住職)である永観です~。
盛り砂の側に立っている石燈籠。
彼はここの住職になる前は、奈良の東大寺にいたんですね。
そこに、もともと「みかえり阿弥陀」があったんです♪
でも、その頃はみかえりじゃなくて、普通の阿弥陀像でした。
では、いつこの阿弥陀像が振り返ったのかというと
それは東大寺から、永観が阿弥陀像を背中に乗せて、こちらの永観堂にやって来てからです。
1082年2月15日
永観、50歳の頃
早朝、阿弥陀堂で修行をしていた永観。
この阿弥陀像の周りを念仏して行道していたそうです。
すると、突然・・
阿弥陀像が壇を下り永観を先導し行道を始めちゃったのです
驚き立ち尽くす永観。
この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り
「・・・永観、遅し」
と伝えたのです。
永観の方を振り返り、少し口を開いた阿弥陀像・・
それが「みかえり阿弥陀」という姿になったというワケだったのです。
こちらが、その阿弥陀堂です。
では、どんどん進んで行きましょう~
はい、こちらは釈迦堂(方丈)です。
中には「松鳥図」や「群仙図」と言われる襖絵が飾られていますっ!
御影堂です。
紅葉シーズンが始まり、参拝者の方も多いですね~っ。
一旦建物を出まして次に京子が目指したのは
放生池(ほうじょうち)という大きな池~!
さて、ここで
京子の永観堂紅葉ポイント1
それがこの放生池に移りこんだ楓っ。
そしてそして、
京子の永観堂紅葉ポイント2
この放生池から見る多宝塔~っ。
いかかがでしょうか?
なかなか紅葉が見事ですよね~♪
約3000本の楓が永観堂には植えられています。
放生池周辺は紅葉ポイントなので
是非行かれた際はご覧くださいね~っ。
※ちなみに今月30日までは、夜の特別拝観もやっていらっしゃるそうですよ。
さて、この放生池には
与謝野晶子(よさのあきこ)が紅葉狩りに来た時に残した歌碑もありました♪
与謝野晶子は明治時代の歌人であり歌集「みだれ髪」は有名ですね。
そんな彼女の残した詩で印象的なのが
雑誌「明星」に掲載された
「君死にたもうことなかれ」ですよね~。
戦争に行く弟へ向かって反戦の感情を表わしたこの詩。
しかし、当時の世論はこの詩に関して否定的に捕らえていたのでした。
日清戦争後、三国干渉(フランス・ドイツ・ロシア)により
遼東半島を返還する事となり
ロシアに対する日本人の不満が高まっていたのでした。
いわゆる臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ですね。
今に見ていろロシアという思いでいたのです。
こちらは水琴窟。周りが静かであれば、綺麗に響く音が聞こえてくるそうです。
鐘楼は1703年、江戸時代のものです。
三鈷の松(さんこのまつ)は葉先が3つに分かれている珍しい松で「知慧」「慈悲」「まごころ」を表しています。
日本は、その後「日露戦争」へと発展していきます。
個人の幸せよりも、国益を願う人々が多くいました。
そんな日露戦争へ向かう弟に対し与謝野晶子が発表した詩が
「君死にたもうことなかれ」だったんですね。
そして、その詩の中の一説には
「死ぬのが名誉だとおだてて民を狩りだすのに、天皇は戦争に自ら出かけられない」
と天皇を否定的に書いていたものまでありました。
彼女は否定的な世論に対し
「どうして家族の無事を願う気持ちがいけない事なのでしょう?」
と言った人なんですね~。
それにより当時、多くの世論、特に女性に指示されたようです。
と、いう事で紅葉シーズンもいよいよ到来ですね。
京子も2010年、京都の秋を沢山レポートできればと思いますっ!
永観堂の魅力はこの他にもあるんですけど
本日はここまでということで
また機会があれば第2弾をご紹介したいと思いますっ
そんな永観堂の場所はコチラ↓
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