今回ご紹介するのは
京都市伏見区の日野(ひの)にある
![法界寺(ほうかいじ)](2016/03/31/01/2016-03-31-4.jpg)
法界寺(ほうかいじ)です!
法界寺は、東光山(とうこうざん)と号す
真言宗醍醐寺派(しんごんしゅうだいごじは)の寺院で
平安中期の貴族である日野資業(ひのすけなり)が
1051年(永承6年)に出家して、この地にあった
日野家の山荘に藤原北家(ふじわらほっけ)の
藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)が伝承した
最澄(さいちょう)自作の薬師如来像をご本尊として安置し
お寺に改めたのが始まりです
![こま札](2016/03/31/01/2016-03-31-3.jpg)
こま札
ご本尊が薬師如来である事から
法界寺は通称
『日野薬師(ひのやくし)』とも呼ばれ
日野家の氏寺で
菩提寺となっているんですね
![「ひのやくし」と刻まれた石碑](2016/03/31/01/2016-03-31-2.jpg)
「ひのやくし」と刻まれた石碑
ちなみに日野家は、藤原北家の一族で
資業の頃から日野氏を称したといわれています
※藤原北家は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子4人が、それぞれ興した4つの家である藤原四家(ふじわらしけ)の1つ。藤原北家の他に藤原南家(ふじわらなんけ)、藤原式家(ふじわらしきけ)、藤原京家(ふじわらきょうけ)があります。
室町幕府第3代将軍である
足利義満(あしかがよしみつ)が
日野時光(ひのときみつ)の娘
業子(なりこ)を夫人に迎えてから
足利将軍の正室は、日野家から出る
という慣習となったそうで
それは9代将軍の足利義尚
(あしかがよしひさ)まで続きました
そんな日野家は、室町幕府第8代将軍
足利義政(あしかがよしまさ)の正室
御台禅尼(みだいぜんに)と呼ばれた
日野富子(ひのとみこ)の頃
最も隆盛を極めたといわれています!
![法界寺の鐘楼(しょうろう)](2016/03/31/01/2016-03-31-12.jpg)
法界寺の鐘楼(しょうろう)
ちなみに日野富子と言えば
1467年(応仁元年)に起こった
『応仁の乱(おうにんのらん)』の
きっかけの1つを作った人物でもあるんですね
足利義政と日野富子との間に
子供がなかった為に室町幕府の次の将軍は
義政の弟である義視(よしみ)に
譲る事となっていたんですけれど・・・
なんとその後、富子が義尚(よしひさ)を
身ごもってしまうんですね~
富子は、もちろん息子に将軍職を
継がせようと考えるんですけれど
すでに次の将軍職には
義視がなる事になっていたので
ここで争いが起こったというワケです
※応仁の乱について詳しくは銀閣寺(慈照寺)の記事をご覧下さい。
また、日野家一族の中には
浄土真宗を開いた
親鸞(しんらん)も知られ
法界寺の近くには親鸞誕生地である
日野誕生院(ひのたんじょういん)が
あるんですよ
![法界寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)](2016/03/31/01/2016-03-31-13.jpg)
法界寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
ちょっと脱線しましたけれど
再び法界寺の歴史に戻りまして・・・
資業が山荘を寺に改めた事から始まった法界寺は
1089年(寛治3年)に日野実政(ひのさねまさ)が
法界寺別当(べっとう)の宣下を受けると
それ以降、歴代は別当職を引き継いだそうです
※寺院においての別当とは、寺務を統括する長官職の事。
その後、1221年(承久3年)の
承久の乱(じょうきゅうのらん)の兵火等で
阿弥陀堂以外の伽藍は焼失してしまったそうで
1533年以降は、醍醐寺の
三宝院(さんぽういん)所属となりました。
※承久の乱について詳しくは、高山寺の記事をご覧ください。
そして1809年(文化6年)
浄土真宗の西本願寺
(にしほんがんじ)は
浄土真宗開祖である親鸞の
誕生の地、日野にある
法界寺を復興させるんですね
それでは早速、中に入っていきましょう
![法界寺の山門](2016/03/31/01/2016-03-31-1.jpg)
法界寺の山門
こちらの山門をくぐって中に入ると
ひし形の石が綺麗に敷かれた
延段(のべだん)があります
![法界寺の延段(のべだん)](2016/03/31/01/2016-03-31-4.jpg)
法界寺の延段(のべだん)
この延段に沿って歩いていき
しばらくすると右手に池が見えるんですね。
![法界寺境内の池](2016/03/31/01/2016-03-31-6.jpg)
法界寺境内の池
池の前には弁財天(べんざいてん)を
お祀りする弁天堂や大師堂(たいしどう)があります!
![弁天堂(べんてんどう)](2016/03/31/01/2016-03-31-7.jpg)
弁天堂(べんてんどう)
![大師堂(たいしどう)](2016/03/31/01/2016-03-31-8.jpg)
大師堂(たいしどう)
そしてさらに延段に沿って
まっすぐ歩いて右手に行くと
薬師如来を安置する本堂
『薬師堂(やくしどう)』が
あるんですよ
![法界寺の本堂である「薬師堂」](2016/03/31/01/2016-03-31-9.jpg)
法界寺の本堂である「薬師堂」
こちらの薬師堂は、奈良県の
斑鳩町(いかるがちょう)龍田(たつた)にあった
伝灯寺(でんとうじ)の本堂を
移築したものだそうで
棟木(むなぎ)の下に書く棟木銘(むなきめい)が
1456年(康正2年)と書かれている事から
室町時代に造られたものと思われます
お堂の中に安置されているご本尊の
薬師如来は通称
『乳薬師(ちちやくし)』とも
呼ばれているんですね~
これは、今のご本尊の胎内に
創建時の最澄作の三尺の薬師如来像が
納められているからなんですね
この事からご本尊の薬師如来は
女性からの信仰が厚かったそうで
祈願すると、お乳が出が良くなると
言われた事から『乳薬師』と
呼ばれるようになったんですね
お堂の左右には
よだれ掛けが奉納されています
![薬師堂に奉納された「よだれ掛け」](2016/03/31/01/2016-03-31-10.jpg)
薬師堂に奉納された「よだれ掛け」
安産や子育て祈願、またお乳が出ないお母さんに
ご利益があると信じられているんですね
法界寺寺務所では
『御守り付よだれ掛け』が
授与されているんですよ!
![法界寺寺務所](2016/03/31/01/2016-03-31-5.jpg)
法界寺寺務所
そして、寺務所前、山門から延段に沿って
まっすぐ歩いた左手には
1118年(永久6年)以前の建立とされる
国宝の阿弥陀堂があります
![法界寺の阿弥陀堂](2016/03/31/01/2016-03-31-11.jpg)
法界寺の阿弥陀堂
平等院(びょうどういん)の鳳凰堂(ほうおうどう)や
三千院(さんぜんいん)の往生極楽院
(おうじょうごくらくいん)とともに
代表的な浄土教建築として知られているんですね
阿弥陀堂の中には
定朝(じょうちょう)の作と伝わる
寄木造の丈六(じょうろく)の
阿弥陀坐像が安置されています
定朝は、平安時代後期に活躍した仏師で
寄木造の完成者といわれる人物です
※寄木造とは、複数の木材を繋ぎ合わせて仏像を作る技法。
※定朝について詳しくは、七条仏所跡の記事をご覧ください。
法界寺では毎年、元旦から14日まで
五穀豊穣や家内安全、無病息災等の
諸願成就を祈願する修正会
(しゅしょうえ・正月に行われる法会)が
行われ、その最終日には
『裸踊り(はだかおどり)』が奉納されます!
![法界寺の裸踊り](2012/01/14/01/2012-01-14-6.jpg)
法界寺の裸踊り
裸踊りは、江戸時代には
すでに行われていたそうで
現在、京都市登録無形民俗文化財に
指定されてるんですよ~
という事で今回は伏見区の
日野にある法界寺をご紹介しました!
法界寺の場所はコチラ↓