今回ご紹介するのは
京都に古くからある伝説を
いくつかご紹介したいと思います!
京都は、『魔界』と
表現する人がいるくらい
数々の伝説が各地に伝わっている
場所でもあるんですね
そしてそういった伝説は、うわさ話程度で終わらずに
能や狂言に取り入れられたりするものもあります
あなたの知らない京都が
まだまだあると思いますよ~
それでは早速、ご紹介していきましょう
・観音寺の百叩きの門(かんのんじのひゃくたたきのもん)
京都市上京区にある観音寺には
出水通の七不思議に数えられている
通称『百叩きの門』と
呼ばれる門があるんですよ~
なんだか名前からして怖そうな
イメージを持ってしまいますよね
さて、その百叩きの門が
どうしてそのような名前で
呼ばれるようになったのかと言いますと・・・
もともとこの門が
伏見城(ふしみじょう)の牢獄の門で
罪人が釈放される際に
二度と牢獄に戻ってこないよう
門の前で百回叩いてから
外に出していたと言うんですね!
そういった事からいつしか
百叩きの門と呼ばれるようになったそうです!
けれど、それだけで
京都の伝説とまでは言えませんよね
実はこの門
伏見城から移築してしばらくすると
ある噂が周りで広がるんです
そのある噂とは・・・
なんと!この門から
人のすすり泣く声が聞こえてくる!
というものだったんですね
そんな噂がたつものですから
お寺には怖くて誰も近寄らなくなってしまいました
そこで、当時の住職は
この門に罪人の霊が乗り移っていると考え
100日間絶食をして念仏を唱え
霊を鎮めたといわれています
それ以降、人の泣き声は
聞こえなくなったそうですよ
・上品蓮台寺の蜘蛛塚(じょうぼんれんだいじのくもづか)
上品蓮台寺の墓地には
源頼光朝臣塚(みなもとのらいこうあそんづか)
と、書かれた塚があり
通称『蜘蛛塚』と呼ばれています
ちなみに源頼光
(みなもとのらいこう・よりみつ)は
日本三大悪妖怪の1つに数えられる
酒呑童子(しゅてんどうじ)という
大江山(おおえやま)に住み着いていた鬼を
退治しに行った人物として知られています。
彼の配下には四天王と呼ばれる4人の部下がいて
その中の1人は、金太郎のモデルといわれる
坂田金時(さかたのきんとき)です
そんな頼光が突然
原因不明の熱病に侵されてしまいます
ある晩の事…頼光が眠っていると
枕元に身長約2メートルの怪僧が現れ
縄を放って絡めとろうとしてくるんですね~。
頼光は、すぐさま飛び起き
名刀膝丸(ひざまる)で斬り付けると
怪僧は消えてしまいました
その後、怪僧の血痕を四天王に追わせると
血痕は、北野神社(現在の北野天満宮)の
大きな塚まで続いていて、そこで消えています。
四天王の1人である
渡辺綱(わたなべのつな)が
脇差で塚を掘ってみると・・・
なんと!中には約1メートルもある
巨大な土蜘蛛が
苦しんでいるじゃないですか!
頼光らは、すぐにその土蜘蛛を捕らえ
串刺しにして河原に晒したそうです。
すると不思議な事に
頼光を苦しめていた熱病は
たちまち治ったんですね~
以降、この塚の事を
蜘蛛塚と呼ぶようになったそうですよ。
ちなみに土蜘蛛は、もともと
妖怪といった類のものとは違って
天皇に恭順を示さなかった
土着の豪族等に対する蔑称の事のようです。
それが時代が経つに従って
言葉の響きから蜘蛛の妖怪と
みなされるようになったんですね。
ちなみに土蜘蛛は、能の演目にもなっていて
蜘蛛の糸を投げつける演出が人気なんですよ
・大報恩寺(千本釈迦堂)のおかめ(だいほうおんじ(せんぼんしゃかどう)のおかめ)
『阿亀(おかめ)』と呼ばれる女性の
悲しいエピソードが伝わっています
おかめは、千本釈迦堂の本堂を
建てるよう任された大工の棟梁である
長井飛騨守高次
(ながいひだのかみたかつぐ)の奥さんでした。
高次は約200人の職人を使って
一生懸命に仕事をしたんですけれど
ある重大なミスを犯してしまいます
なんと!代わりがきかない
本堂の親柱(おやばしら)4本のうちの1本を
よりによって短く切ってしまったんです!
これには高次も顔面蒼白!
何せ明日は、建物の新築の際に行われる祭
上棟式(じょうとうしき)だったんです!
すると、妻のおかめがスッと出てきて
「お前様、柱を短い柱に合わせて切りそろえてはいかがでしょう。
そして足らない分は枡組(ますぐみ)を乗せて、高さを補うようにするのです。」
と、言いました。
高次もこれは妙案だという事で
早速、柱の切れっぱしで実行に移し
本堂は無事に完成しました!
出来上がった本堂は
枡組を乗せた事で見栄えが良く
とっても立派に見えた事から
日本一の大工と人々から
絶賛されたんですね
けれどその後
高次は、この事で大いに悩んだそうです。
それは、枡組が妻のアイデアだったという事が
世間にバレるのかも知れないと
不安になっていたんですね。
おかめは、夫が悩んでいる事を知って
「妻(女)が助言した事が世間に知れると
夫の名に傷がついてしまう!ならばいっその事
この身を亡き者に・・・。」
と、自殺をしてしまったんです!
その後、高次は妻であるおかめの冥福を祈って
おかめ塚を建てて、おかめの名にちなんだ
福面を付けた扇御幣(おうぎごへい)を
飾ったといわれています
そして、このエピソードはやがて
全国へと伝わり、多くの大工の信仰を得たそうで
今でも上棟式の際には
それ以降の工事の無事を願って
御幣におかめの面が添えられるんですね。
・将軍塚大日堂の将軍塚(しょうぐんづかだいにちどうのしょうぐんづか)
将軍塚大日堂は
青蓮院(しょうれんいん)の
飛地境内(とびちけいだい)にあるお堂で
そこに直径約20メートル、高さ約2メートルある
将軍塚と呼ばれる塚があります
でもどうしてこの塚が
将軍塚と呼ばれるのか気になりますよね??
それはこの塚に埋められたのが
大きさ約2.5メートルの弓矢を持った
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の像
だったからなんですね~!
坂上田村麻呂は
789年(延暦8年)に朝廷から
蝦夷(えぞ:現在の東北以北)を
制圧する為の役職であった
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に
任命されていたんですね
つまり!将軍像が埋まった塚だから
将軍塚というワケです
その将軍塚には、あるいわれがありまして・・・
なんでも将軍塚はその昔
国家の大事を知らせるよう鳴動(めいどう)
つまり、大きく音を立てて揺れたと
いわれているんですね♪
鎌倉幕府(かまくらばくふ)を後に開く
源頼朝(みなもとのよりとも)が
平家に対して挙兵する前年や
室町幕府(むろまちばくふ)成立の前後等
都を揺るがす一大事に
「ゴォォ!!」
と、揺れたと太平記(たいへいき)や源平盛衰記
(げんぺいせいすいき)に書かれています
※源平盛衰記は源氏・平家の栄光と衰退を描いた軍記物語です。
という事で、今回は
京都に古くからある伝説を
ご紹介させていただきました