今回ご紹介するのは
双林寺(そうりんじ・雙林寺)です。
こちらの双林寺は天台宗のお寺で
桓武天皇(かんむてんのう・第50代天皇)の命によって
尾張連定鑑(おわりのむらじじょうかん)が
伝教大師(でんぎょうたいし)最澄(さいちょう)を開祖に招き
日本初の護摩祈祷道場として
創建したのが始まりとされているんですよ
※最澄については、三千院の記事をご覧下さい。
ちなみに双林寺の正式名称は
霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院というそうなんですけれど・・・
とっても長いんですよねぇ~
どのように読むのかと言いますと
「りょうじゅせんさらそうじゅりんじほっけざんまいむりょうじゅいん!」
となるそうです。
間違いなく読めた人は
いらっしゃいますか~
ちなみに沙羅双樹という名前が
双林寺の正式名称についているのは
ここが唐の沙羅双樹林寺によく似ていた事に
由来しているそうですよ。
その後、823年(弘仁14年)に
比叡山延暦寺が建立されると
双林寺はその別院となったと言われています。
※比叡山延暦寺は天台宗の総本山で最澄は天台宗の開祖ですよね。
では早速レポートしていきましょう。
境内に入るとすぐ右手に
伝教大師童形像がありました♪
最澄の幼い姿の像なんですけれど
この像は、もともと二条城北側の
少年補導所の前庭に安置されていたそうですよ。
少年補導所の
初代所長である本庄さんが
最澄の遺訓である
「私は生まれてこの方、子供を打ったこともなく、子供に荒久しい言葉を使ったこともない、
子供の人権を尊重し、立派に育ててくれる人を見ると、恩人だと思う、努力めよ努力めよ」
に大変感銘して、この像を作ったと言われています。
しかも、ただ作ったんじゃないんですね~
胸のところに心と体の病を治して頂けるよう
薬師如来の像を抱いた姿になっているんですよ
そしてすぐ側には本堂があります!
本堂にはご本尊の木造薬師如来坐像と
歓喜天像が安置され
京都十二薬師霊場の1つで第七番札所になっています。
ちなみに双林寺はかつて広大な敷地を誇っていたそうなんですけれど
現在の境内は、それほど広くないんですね。
こま札によりますと
明治の中頃に円山公園を造るにあたって
多くの土地を失ったんだそうです
また円山公園だけでなく
北政所(きたのまんどころ)が秀吉の没後に建てた高台寺や
東大谷廟(おおたにそびょう・親鸞聖人の墓所)なども
かつては双林寺の寺領だったそうですから
かなり広大な敷地だったというわけですよね
こちらは本堂横にある供養塔で
左から頓阿(とんあ)、西行(さいぎょう)、平康頼(たいらのやすより)
の供養塔が並んでいます。
※頓阿は鎌倉時代に活躍した歌人であり僧。西行を慕ってこの地に草庵を営んだそうです。
※西行について詳しくは勝持寺の記事をご覧下さい。
※平康頼は、平安時代の武士であり歌人で、1177年の鹿ヶ谷の陰謀に参加しています。その後、捕縛され島流しとなりますが許された後、この地で仏教説話集である『宝物集』を執筆したそうです。
そしてこちらは
持病平癒地蔵尊を安置する地蔵堂です。
鳥羽天皇(とばてんのう・第74代天皇)の皇女である
綾御前(あやごぜん)が父の菩提を弔うために
書写した金宇法華経八巻を納め
法華塔を建立されたそうなんですけれど
応仁の乱で燃えてしまいます
その跡地に灰土を集め
法華塚を立てた際に
地中から出てきたのが
持病平癒地蔵尊だったんですね~。
持病平癒地蔵尊はその名のとおり
病気平癒のご利益があるそうですよ
そして飛地には花月庵(西行堂)があります。
西行堂は、天正年間(1573~1593年)に
西行が居住していた
双林寺の塔頭・蔡華園院(さいけおんいん)の跡地に
建てられたもので
現在の建物は明治になって
再建されたものなんだそうです。
ちなみに西行はこの地で
「さまざまに花咲きけりと見し野辺の同じ色にも霜枯れにけり」
と詠んだと言われているんですよ。
現代風に訳してみると
「春には色んな花が咲いていたけれど
冬が来ると、どれも同じ色に霜枯れちゃうんだね」
という意味なんですね。
花月庵(西行堂)については、また別の機会に詳しくご紹介しますね
そんな双林寺の場所はコチラ↓
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