今回ご紹介するのは

浄土院

銀閣寺からほど近い(徒歩5分)場所にある

浄土院(じょうどいん)です。


もともとこの場所には

浄土寺(じょうどじ)という

天台宗のお寺があったと言われています。


というのも

室町幕府第8代将軍である

足利義政(あしかがよしまさ)が

銀閣寺を造営する時に

浄土寺を相国寺(しょうこくじ)のあたりに

移転させたんですね


こま札

しかしその後、浄土寺は廃絶してしまいます


そんな中、1722年

もとあった浄土寺の跡地に残った塔頭を集めて

泰誉浄久(たいよじょうきゅう)がお堂を作ります。


それが現在の浄土院の始まりとされ

その後、1732年随誉(ずいよ)上人によって

現在の場所に再建されたそうですよ


浄土寺の本堂には


本堂

本堂


足利義政の持仏であったと伝わる

阿弥陀如来像が安置され、本尊となっています


さて、この浄土院は通称

大文字寺(だいもんじでら)』と呼ばれているんですね。


大文字とは、皆さんご存知の

8月16日に送り火をやる、あの大文字の事ですよ~


なぜそのように呼ばれているのかと言いますと

何を隠そうこの浄土院が大文字の送り火を代々

管理してきているからなんですね


大文字の送り火の日(8月16日)には

大文字山に祀られている

弘法大師堂の前で時の住職が

お経を上げてこられたそうです。


お経が終わる20時頃

弘法大師堂の灯明から火床に

火が着けられるそうですよ


また、大文字寺

ある人物ゆかりの場所であったりもします。

そのある人というのは・・・


丹後局立像

境内にある丹後局立像です。友永詔三(ともながあきみつ)さんが制作されたそうです。


丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子(たかしなのえいし)です!

※丹後局という名前の方が知られていますので以下、丹後局で統一しますね。


丹後局は絶世の美女であったと言われ

『日本の楊貴妃(ようきひ)』

とあだ名されるほどだったそうです


本堂に掲げられていた額

本堂に掲げられていた額


彼女は

後白河法皇の院の近臣だった

平業房(たいらのなりふさ)の妻だったんですけれど・・・


夫である業房は

治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん・1179年)で

捕縛され伊豆に配流(流罪)の途中に逃げ出し

清盛に殺されてしまうんですね

※治承三年の政変とは、清盛が後白河法皇を幽閉し、院政をやめさせたクーデターの事です。


夫が殺された丹後局は

その後どうしたのかと言いますと

なんと!

後白河法皇に近づき

法皇の寵愛を受けて側室となり

親王を産んじゃいます


日本の楊貴妃と書かれた札

流石は日本の楊貴妃と言われるだけの事はありますよね

だって子供がたくさんいる

後白河法皇の寵愛が受けられるなんて

かなりの美人さんだったと思います!


やがて清盛が亡くなると

彼女は権力を握り

政治の世界に介入するようになったと言われ

このことから女性政治家の先駆者とも呼ばれています

※安徳天皇の継嗣問題(世継ぎ問題)の際、のちの後鳥羽天皇即位に大いに関わったとされています。


また源頼朝(みなもとのよりとも)とも

親密な関係を築き

鎌倉幕府と朝廷との間で

上手く立ち回り

ますます権勢を振るったそうですよ


本堂正面

本堂正面


晩年、権力を失った彼女は

亡き夫である業房の所領・浄土寺に隠棲し

浄土院二位尼(じょうどいんにいのあま)と呼ばれたそうです。


説明板

最後まで業房の事は

忘れていなかったんですね~


そんな浄土院の場所はコチラ↓


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