今回ご紹介するのは
京都市東山区にある
場所は京都市東山区松原通大和大路を東に100mほど入った所にあります。
みなとや幽霊子育飴本舗(ゆうれいこそだてあめほんぽ)です。
幽霊
と聞いて、びっくりされた方もいらっしゃると思いますけれど
実はこのお店、なんと幽霊が子供のために食べさせたと伝わる飴
『幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)』
を売っているんですよ
看板にもはっきりと幽霊子育飴という文字がありました!
お店に買いにいくと
タイミングもバッチリで
第20代目、店主の方に
由来を聞くことが出来ました
お店の前に立てられていた由来の書かれた看板
なんでもこのお店は
京都で2番目に古いお店らしく
飴屋としては日本一古いそうです
※約500年前から商いをやってるそうです。
京都には老舗がいっぱいありますけれど
その中でも2番目に古いというのは
びっくりですよね~。
そして看板メニューにもなっている
幽霊子育飴についてお話を聞いてみると・・・
1599年、慶長(けいちょう)4年
夜な夜な飴を求める女性がいたそうです。
女性はいつも1文(いちもん・江戸時代の通貨)分の飴を買って
帰っていったそうなんですけれど
ある時、店主がお金を数えていると
お金を入れていた箱の中に
樒(しきみ)の葉が入っている事に気がつきます
※樒というのは仏教で死者を弔うときにお供えする花の事のようです。
そこで店主は毎夜来る女性が怪しいと思い
飴を買いにきた後を
こっそりとつけて行くんですね~。
お寺の墓前に着くと
驚いた事に女性が
スーっと消えていったそうですよ
店主が不思議に思っていると
お墓の中から「オギャー」と
赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。
その事をお寺の住職に話し
墓を調べてみると、中には女性の遺体とともに
赤ん坊がいたんですね。
遺体は毎夜飴を買い求めてきた女性のもので
土葬されていたそうです。
つまりその女性は
死してもなお、子供のために幽霊となって
飴を求めて買いに来ていたというわけなんです
このような伝承から
幽霊子育飴と言われているそうですよ~
そしてこのお話は
漫画家である水木しげるさんの作品
『ゲゲゲの鬼太郎』誕生のきっかけにもなったと
お話しされていました
また落語にもなっているようで
桂米朝(かつらべいちょう)さんの
幽霊飴としても語られているそうです。
※米朝ばなし 上方落語地図(講談社文庫)
この様な幽霊が飴を買いにくるというお話は
日本全国色々な場所に伝わっているようで
まんが日本昔ばなしにも『幽霊飴』というタイトルで
幽霊が飴を買いにくるお話があるんですよ
当時は、練り飴のような形で売られていたそうですけれど
いつ頃からか、現在のような琥珀色の固形物として
売られるようになったみたいです。
原材料は
麦芽糖とザラメ糖のみで
非常に素朴なやさしい味で
どこか懐かしい感じのする飴なんですよ。
小さい子が食べても大丈夫な感じでしたよ~
今でも、たまにですけれど
話を聞いた妊婦さんが買いにきたりするようです♪
ちなみにこのお店のある場所の町名は
轆轤町(ろくろちょう)と言うようで
もともとは髑髏町(どくろちょう)と呼ばれていたそうです
※髑髏を時代に合わせたのか、江戸時代に轆轤と変えたみたいです。
それもそのはず、その昔この辺りは鳥辺野(とりべの)といって
風葬の場所だったと言われています。
あちこちに骸骨があったのでしょうね~
近くにある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の前には
六道の辻の石碑があり
六道の辻とは、この世とあの世の境目という意味なんです。
※詳しくは、六道珍皇寺の記事をご覧下さい。
また、平安時代には
平氏一門の屋敷が並んでいた場所で
『六波羅(ろくはら・六原)』という場所なんですよ。
そういった歴史ある町なんですね。
※六波羅蜜寺もこの六波羅にあります。詳しくは、六波羅蜜寺の記事をご覧下さい。
そして、気になる赤ちゃんは
その後どうなったのかと言いますと
8才になる頃までは
お店のほうで預られていたそうで
のちに高名なお坊さんになったみたいです
ちなみに京都の上京区にある
立本寺(りゅうほんじ)でも
同じような言い伝えがあり
こちらでも幽霊子育飴が売られています。
こちらの話では、赤ちゃんはその後
日審上人(にっしんしょうにん)というお坊さんになったと言われているんですよ。
という事で今回は
幽霊が買いにきたと伝わる飴を売っている
みなとや幽霊子育飴本舗さんをご紹介しました
気になる人は飴を買いに行ってみてはいかがでしょうか。
みなとや幽霊子育飴本舗の場所はコチラ↓
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