今回ご紹介するのは
百人一首にも登場する滝で、京都検定でも度々出題されている・・
名古曽滝趾(なこそのたきあと)です
『名古曽滝』とは平安時代初期にあったとされる滝で
現在は、大覚寺にある大沢池の湖畔に石碑が建っています
百人一首にも詠まれる、名古曽滝は
平安時代初期の天皇『嵯峨天皇(第52代天皇)』の離宮であった
『嵯峨院』の庭園に設けられた人口の滝でした。
※大覚寺は、この嵯峨院を876年に寺として改めたものです。大覚寺について詳しくは、大覚寺 その1、大覚寺 その2の記事をご覧下さい。
この名古曽滝を含む、嵯峨院の庭園を作庭したと言われているのが・・
貴族であり画家の『百済河成(くだらのかわなり)』という人物です。
今昔物語(こんじゃくものがたり)によると
彼の祖先は百済(かつて朝鮮半島にあった国)出身だそうで
武官などの仕事をしながら、画家としても活躍したと言われています
嵯峨院の庭園は、そんな百済河成が
同庭湖(どうていこ・中国にある巨大な湖)を模して
作庭したといわれる庭で、巨大な『大沢池』を中心に
『名古曽滝』や『滝殿(たきどの・滝や庭を鑑賞する為の建物)』を配したものでした。
※この庭園は日本最古の庭園と言われているそうですよ
この大沢池は当時『庭湖(ていこ)』とも呼ばれ
池に船を浮かべ庭を楽しむ
池泉舟遊式庭園(ちせんしゅうゆうしきていえん)だったそうですよ。
分かりやすく言えば
貴族たちが池に舟を浮かべ、そこで詩を詠んだり、宴を開いたりして
庭やその景色を含めて楽しんでいたって事です
こちらが大沢池です。この池は『日本三大名月観賞地』の1つとされています。中秋の名月にはここに舟を浮かべ月見をする『観月の夕べ』が行われます。詳しくは観月の夕べ 2011(大覚寺)の記事をご覧下さい。
そんな池の湖畔に作られた名古曽滝は
冒頭でも書いた通り、百人一首にも登場するんですね
詠んだのは
平安時代中期の歌人『藤原公任(ふじわらのきんとう)』です。
では、さっそくその歌をご紹介したいと思います。
「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ」
ん?滝のすばらしさについて詠んでいる歌と思いきや
少し違うようですね。では、訳してみましょう。
滝を流れる水の音が聞こえなくなってから
もうずいぶんと時が流れてしまいましたね・・
ですが、その名声だけは人々に絶えず流れています。
つまり・・・藤原公任はこの滝が無くなってから
その滝を惜しみ、歌を詠んだんですね
ちなみに藤原公任は平安時代中期の歌人です。
嵯峨院は834年に完成したと言われていますから
ほんの150年ほどの間に、その滝は姿を消してしまったようですね。
ちなみに『名こそ流れて』という一文から
名古曽滝という名前が付いたそうですよ
嵯峨天皇が崩御した後、嵯峨院は寺に改められます。
その後、鎌倉時代初期に後宇多天皇(ごうだてんのう・第91代天皇)により
名古曽滝が復活したそうですが『応仁の乱(1467年)』によって
寺は荒廃し、再び名古曽滝は姿を消す事となりました。
※応仁の乱については銀閣寺(慈照寺)の記事をご覧下さい。
それから時は流れ
大正11年に国の名勝として登録された事をきっかけに
1994年に発掘調査が行われ
名古曽滝の遺構が発見されたそうです
名勝『大沢池』を記した石碑も建っています。
こうした事から、約500年ぶりに『名古曽滝趾』として
名古曽滝周辺が整地され
そこに滝があったと思わせる石組や
大沢池に続く遣水(やりみず・庭を流れる小川)を復元したそうですよ!
この他、大覚寺の北側には『名古曽町』と呼ばれる町名もあり
そこにも名古曽滝趾の石碑が建っているそうです
という事で、今回は名古曽滝趾をご紹介させて頂きました!
場所はこちらっ。