こんにちは、京子です。
さて♪本日ご紹介するお寺は・・・
圓徳院(えんとくいん)です。
場所はと言いますと、京都の観光スポットのひとつである
東山(ひがしやま)にあります高台寺のすぐ隣になります♪
この圓徳院の前には、『ねねの道』と名付けられた八坂神社から清水寺へ続く石畳の道が通っています。
ねね?と言われてピンと来た方もいらっしゃると思いますけれど・・・
『ねね』とは、天下人、豊臣秀吉の奥さん(正室)の事です!
彼女は、秀吉を弔う為に高台寺を建てた事は有名ですけれど
この圓徳院は、その高台寺の塔頭になります。
ねねの没後、彼女の甥にあたる木下利房(きのしたとしふさ)により
『木下家』の菩提寺として建てられました。
ねねの道と名付けられた事からもわかるように
このあたりは、ねねが晩年を過ごした事で知られています。
※ねねの道には、沢山のお土産屋さんや旅館、小料理屋などが並び、観光客の方で賑わっています。
では、早速中へと入ってみましょう♪
綺麗に手入れされた参道を進むと・・・
まずは、唐門(からもん)が見えます♪
そして、ここで手水鉢(ちょうずばち)を発見
説明によると、秀吉公好みの手水鉢だそうで
秀吉が今川義元の親戚にあたる西尾家に対して送ったものだそうです。
後に西尾家からこちらの圓徳院に寄贈されたという事ですよ♪
そして、唐門をくぐると方丈が見えました。
残念ながら、中は撮影禁止でしたけれど数々の寺宝があります。
桃山時代を代表する絵師である長谷川等伯(はせがわとうはく)の『冬の絵』など
没後400年に際して、彼の襖絵が多数、公開されていましたよ~。
さて、秀吉の没後、正室である『ねね』は家康の協力のもと、高台寺を建て
ひっそりとこの地で、尼さんになり、『高台院(こうだいいん)』と名乗り
晩年を過ごしたんですね
当時は、秀吉が死んだといっても、まだまだ『豊臣の世の中』ですから
秀吉の家臣であった徳川家康など、全国の大名に加え
お坊さんや、茶人、歌人、など多くの人たちが
ねねの元を訪ね、この地へ足を運んだそうです。
ちなみに、秀吉の死後
正室のねねは、このようにひっそりと過ごしていましたけれど
側室である淀殿(よどどの)は、どうしていたの?と言うと
息子の秀頼(ひでより)と大阪城にどどーんと構えて過ごしていたんですね!
秀吉の跡取りを産み、育て、豊臣の世を安泰にする為に
淀殿は大阪城で頑張っていたのが想像出来ちゃいます。
さて、そんな全国統一を目指した豊臣秀吉を支えた念持仏と言われるのが
こちらに祀られている三面大黒天(さんめんだいこくてん)です。
三面大黒天とは、『大黒天』『毘沙門天』『弁財天』の3つの顔を持つ仏様だそうで
彼はそれを好んで毎日拝んでいたと伝わります。
一度で3つの仏様を拝める合理性を秀吉は持ち合わせていたからこそ
天下統一出来たのだと説明されていましたよ♪
表の門前には、直接、参拝者が撫でる事の出来る大黒様もありましたよ~。
さて、さて★
最後にご紹介するのは・・・
北書院です。
大広間に、素敵なお庭が広がっています♪
北書院の前には『北庭』と呼ばれる枯山水庭園は
日本国指定名勝のひとつに指定されています♪
伏見城にあった池泉回遊式庭園を移したものが、この北庭だそうです。
そこに江戸時代の作庭家『小堀遠州(こぼりえんしゅう)』が手を加えたという事です
こちらは、北書院の隣にたたずむ、茶室です。江戸時代から残るものだそうですよ。
さて、この北書院で
ここで目にしたのが3の掛け軸っ。
豊臣秀吉を中心に、両脇には・・・
正室の『ねね』である北政所(きたのまんどころ)の掛け軸。
※北政所というのは名前ではなく、役職のようなもので摂政・関白の正室の称号です。
そして、秀吉の母親である大政所(おおまんどころ)の掛け軸があります。
※関白の母親の事は大政所と呼んだんですね。
秀吉の両脇には、母親と奥さんが並べられているんですね~。
幸せモノだなぁ秀吉
そんな圓徳院の場所はコチラ↓
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